新生活278週目 - 「神の小羊」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第2主日 (2026/1/18 ヨハネ1章29-34節)」。3年前の記事がある。この箇所は、前週の「イエス、洗礼を受ける」のヨハネ伝関連箇所。

福音朗読 ヨハネ1・29-34

 29〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

前週福音朗読 マタイ3・13-17

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


今週の福音朗読の出だしの[そのとき、]は新共同訳では「その翌日、」。前日に洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授けたと推定できる。ヨハネ伝の場合は、洗礼者ヨハネは洗礼を授けるタイミングでは、イエスが神の子であることを知らなかったが、洗礼を授けた時に霊が鳩のように天から降ってイエスの上にとどまるのを見たことで、イエスが神の子であることを悟ったという話となっている。そして翌日にイエスが再びヨハネの元に現れた時に告白したというように読める。

しかし、現実を考えれば、もし『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』という預言が洗礼者ヨハネに降っていたなら、洗礼を授け終わったタイミングでそれを告白するに違いない。物語としては無理がある。

マタイ伝では、洗礼者ヨハネはイエスを見た瞬間にイエスが神の子と認識していて、それでも洗礼を授けて「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。

重要なシーンが福音書間で異なっているのはかなり辛い感じがする。

一致しているのは霊が降ったという記述だけと言っても良い。

ちなみに、ヨハネ伝ではこの翌日に洗礼者の弟子であったシモン・ペトロの兄弟アンデレは洗礼者ヨハネがイエスを神の子羊と再び呼んだことに呼応してイエスについていき、その後兄弟シモンを引き合わせたと書かれている。ペトロもアンデレもガリラヤの人だから、エルサレム近傍でその記述に合致する史実があったとは考え難い。

福音のヒント(1)に「それはただの出来事の報告ではありません」と書いてあるように、ヨハネ伝は大胆に含意に基づいて再編集したものと考えればよいのだろう。「イエスの活動のはじまりを最初の6日間の出来事として伝えています(1章19節~2章11節)。それは創造の6日間(創世記1章)を思い起こさせるものだとも言えます」が再構成の意図と捉えることができる。

そう考えれば、福音書間の差異や矛盾にこだわってもしょうがないことになる。

しかし、やはり事実がどうだったのかは知りたい。が、ヨハネ伝を読む時にその問いを重ねても詮無いことになる。

カトリックの教会暦では


● 年間
固有な特質を備えた諸節を除く場合、キリストの神秘の種々の面を取り立てて祝
わない週間が、一年の周期の中で、33 ないし 34 週残ることとなる。こういう週間、
また、とりわけ主日は、むしろキリストの神秘全体を追憶するものである。この
期間は「年間」という名で呼ぶ(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」43)。


と書かれている。今日は(月曜日から始まる)「年間」の第二週だが最初の主日となる。「とりわけ主日は、むしろキリストの神秘全体を追憶するものである」とあるので、その最初に「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」という神秘を追憶するのはふさわしいこととなるのだろう。その裏には何らかの史実がある。あるいは捏造された歴史かも知れない。

逆に、そういった神秘や奇跡を取り去った時、イエス伝になにが残るのかを考えることにも意味があると思う。

※画像はArian Baptistry, Ravenna, 6th-century mosaic. A classical personification of the Jordan attends at left. 擬人化されたヨルダンが3人目の登場人物として書かれている。ヨルダン川東岸だから、異世界だったとも言える。