今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第2主日 (2023/1/15 ヨハネ1章29-34節)」。並行箇所はない。昨年の年間第2主日の出だしには「A年にはヨハネ1章29-34節、B年にはヨハネ1章35-42節が読まれます」とある。イエスの活動のはじまりを最初の6日間として構成しているとのこと。書き出しは「その翌日」で前日は19節に祭司やレビ人が洗礼者ヨハネに「あなたは、どなたですか」と質問した日ということになる。イエスが来る前からヨハネはその存在を確信していたという記述の後、青年イエスとであったということになる。
福音朗読 ヨハネ1・29-34
29〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
Wikipediaの神の子羊では、様々な解釈が紹介されていて参考になる。燔祭の生贄の羊として、私が印象的に感じるのは創世記22:13のイサクの代わりとなる雄羊だ。世代継承が絶たれようとしている時に、代わりの雄羊が与えられた話である。イスラエルが絶たれようとしていた時に、イエスが与えられたという解釈もあるかも知れない。
洗礼者ヨハネが霊が降ってくるのを見ることができたとして「聖霊によって洗礼を授ける人」が「世の罪を取り除く神の小羊」とどうつながるかはストレートにはわからない。この時点では、贖罪のイメージをヨハネが持っていたと考えるのは無理があると思う。Wikipediaにあるように「イエスによる血の贖いを認めない立場のキリスト教神学では、血は罪を赦すものではないとされ、イエスが説いた、回心、愛、他者への赦しが、人間の罪を取り除くとされる」という立場もあり、現在の私の解釈は後者に近い。ただ、罪は消えることはないと考えている。霊が降れば適切な行動が取れる道、あるいは言葉が与えられるというのが今の私の理解だ。
聖霊によって洗礼を授ける人というのは、極論すれば理性によるものではなく是非の判断は必要な時に霊によって与えられるから、それに従って言葉を与える人というイメージとなる。洗礼者ヨハネは預言者と同じく与えられた言葉に基づいて自分の意思で判断したが、イエスは違っていたのではないかと思う。生きている人という実態を伴うと、イエスという人格が何かをなしていると見てしまうが、霊の働きを無視することはできない。「世の罪を取り除く」には違和感はない。ユダヤ教の民族主義的で排他的な宗教観では世の罪を取り除くことはできないと思う。ある日急に世の罪が消えて無くなることはないが、霊が働くと防衛的でない判断をする勇気が与えられる。
4つの福音書は、いくつか同じ資料を参照しているとしか思えない。そして、福音書の作者は、私あるいは我々のイエス伝こそがもっとも正統なものだと主張しないわけがない。完成の過程で様々な検証がなされたはずで、筋を通すための創作は避けられない。実際がどうだったのかはわからないが、印象としてはヨハネ伝は教団の正統なテキストを定めた感が強い。史実、事実に忠実であろうとしているようには思えない。ただ、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝の洗礼者ヨハネとイエスの関係については揺れがあり、本当のことは良くわからない。洗礼者ヨハネが宗教的活動を行っていたのは事実で、イエスがそこに通ったのも事実だろう。マタイ伝では、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼をすることをためらう記述があるから、洗礼前にヨハネもイエスもそれぞれが何者であるか理解していたことになる。マルコ伝、ルカ伝ではヨハネの洗礼直後に霊が降ったことになっている。ヨハネ伝ではイエスが洗礼を受けた記述はない。どれが正しいのか、どれも正しくないのかはわからない。ただ、洗礼者ヨハネがイエスの正統性を主張しているところは共通している。そして、霊が降ったというところも共通している。
常識的に考えれば、霊が降ったというイベントを経て、イエスの公的な活動が始まったという風に考えるのが妥当だろう。霊が降るまでは普通の人間だったのだと思う。普通の人間でも頭の回転が早い人とか、腕っぷしが強い人とか、様々な特性があるように少年イエスが普通の人間だったとしてもそれは凡庸であったことを意味するわけではない。
今日の記事の次は弟子を取る記述が2日間続く。既に神がかっているが、そういう事実があったとは考えにくい。むしろ、教団が最初の弟子たちの正統性を書きたかったのではないかと感じさせる。
霊が降るということがどういうことかは言葉に出来ないが、洗礼式に立ち会った時には私はいつも何かこの世ならざることが起きていると感じる。日本基督教団の場合は、「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか。」「告白します。」(以下略)と誓約する。私も誓約したが、使徒信条は人間的にはありえない声明なのだがその瞬間は本当に真摯に告白しているとしか思えないのである。人間である牧師が司式しているわけだが、そこに働く力はとても牧師の力とは思えない。霊が働いているとしか思えないのだ。人間的にはありえないことが起きるわけだが、その瞬間には確かにそれは起きるのだ。ただ、その霊はそのまま留まるわけではない。留まっているのかも知れないが、日常には抗えない。
学びが進めば、使徒信条をそのまま受け入れるのは難しい。ただ、自分が信仰告白した事実は消えることはない。あの時、降った霊が何だったか、あるいは単なる幻想だったのかを説明することはできないが、私は今も聖霊の存在を信じている。自分の思いと異なる聖霊の働きが下ったら従う覚悟をしておく以外にはやれることはない。生きている間にこの先その瞬間が来るかはわからないが、その時のために準備を怠らない生き方ができたら良いと思っている。その時が来るまでは、自分が正しいと思うことに忠実であるように生きるしか無い。聖書も福音のヒントも、そのためのツールとなる。
※冒頭の画像は神の子羊を中心においた古いモザイク壁(CC BY-SA-4.0)。参照元は以下のリンク
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Basilica_of_San_Vitale_-_Lamb_of_God_mosaic.jpg