今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第4主日 (2025/12/21 マタイ1章18-24節)」。ルカ伝1章に並行箇所がある。3年前の記事がある。
福音朗読 マタイ1・18-24
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ〔た〕。
今日は生誕物語の告知の部分である。マルコ伝には記述がない。マタイ伝とルカ伝では記述内容が異なり、時期も一致しない。比較は、WikipediaのNativity of Jesusがわかりやすい。マタイ伝では、ヨセフに告知している今日の記事があり、マリアへの告知の記事はない。生誕後エジプトへの逃亡とヘロデ大王の死亡記事(BC4)があるので、イエスの生誕はそれ以前となる。一方、ルカ伝では、キリニウスの人口調査(AD6)が誕生の時期となるので10年以上の差がある。聖書学者は恐らくマタイ伝の時期のほうが正しいと考えているらしい。一方、マタイ伝のこの箇所の後に出てくる幼児虐殺の史実は存在しないというのが定説となっている模様。
福音のヒント(2)、(3)で触れられている23節のインマヌエル(Ἐμμανουήλ)という言葉は新約聖書でここ一箇所しか出てこず、引用元のイザヤ書のインマヌエル(עִמָּ֫נוּאֵ֫ל)という言葉はイザヤ書7章、8章の二箇所でしか使われていない。この言葉に関してはWikipedia Immanuelの記述がある。マタイ伝の著者が無理やり預言書と結びつけたと考えるのが自然だと思う。マタイ伝はユダヤ人を意識した記述が多くユダヤ教的な正統性にこだわりを感じる。だから、イエスの誕生に対応する預言がない訳が無いと考えたと思われる。Wikipediaの記述にあるようにイザヤ書のインマヌエルはアハズ王の時代の実在人物を指す可能性が高いだろうし、「おとめ」は単に若い女性を意味すると考えられている。キリスト教で処女性が主張されたのは、イエスの父は神であってヨセフでないと考えたかったからだと思う。
もちろん、実在するイエスの家族の伝承はあっただろう。また、人間イエスには生誕の瞬間があり、公生涯以前の人生もある。人間である以上、完璧であったとは考えられない。公生涯においても非の打ち所のない人間であったようには読めない。生まれがベツレヘムとなっているが、この言葉は、マタイ伝、ルカ伝の生誕に関する箇所のほかは、ヨハネ伝7:42のみで出てくるだけだ。しかも、ヨハネ伝の箇所では「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」という群衆がガリラヤのイエスに対する疑義を示す箇所である。実際にはガリラヤ(ナザレ)で生まれてガリラヤで育ったと考えるほうが自然な気がする。実際には洗礼者ヨハネに会いに上京したかのではないだろうか。史実として何があったかは、とても確定できるような状況ではない。
今の私には、どうも生誕物語は作り話のように思われてならない。
しかしながら、マリアは何があったかはすべて知っている。告知もあったかも知れないし、場所もベツレヘムだったかも知れない。そして、繰り返し私は「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と信仰告白している。本当のところはわからないが、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」を真実と考えることにしたということだ。聖書の記述が怪しげだとしても、信仰告白に支障はない。また「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」も同様に史実がどうだったかを特定することはかなわないし、人間界の常識に照らせばどう考えても怪しい。しかしこちらは今の私はもっと積極的に信じて告白している。それは、2000年を経てなおイエスと聖霊はこの世に影響を及ぼし続けていると自分のこととして感じているからだ。言い換えると、旧約聖書の預言に裏打ちされているかどうかはユダヤ教徒にとっては問題かも知れないが、それは後付の理論家であって本質的ではないと思うのだ。歴史に学ぶことが有益なのと同様、旧約聖書の記述に学ぶことも有益だと思っている。しかし、この世に完全な存在など存在し得ない。事実を特定しようとすれば、福音書間やモーセ五書の中でさえ矛盾のある記述は散見される。しかし、それでもなお聖書は「信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白して良い。なぜなら必要な時には必ず聖霊が働くと信じているからだ。
イエスの超人生を立証したくて我慢できない人もいるだろう。預言の成就と総括したり、ありえない奇跡にそれを求める人もいる。まあ良い、その解釈を不当に強要しない限りそれは人の自由だ。
ヨセフは、正しい人あるいは遵法精神が高い人であったにもかかわらず「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、(自分の子供ではない子供を妊娠している)妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。こういう決断は適法かどうかということとは無関係にできることだ。ありえないことだと抵抗感があったとしても、受け入れられることはある。そして、ありえないことは時として起きるものだ。その時に、真実の道を選ぶことができたら幸いなことだと思う。
生誕物語の真実性と、イエスの真実性に対する信仰は極言すれば連動させる必要はない。過去に学びつつも未来を向いて今必要な決断をすれば良い。記念日の設定が怪しくても記念日を祝って良い。主は来られた。そして今も生きておられる。
※画像は、WikipediaのSaint Joseph経由で引用させていただいたGuido Reni: St Joseph with Infant Christ in his Arms。