新生活117週目 - 「イエス・キリストの誕生」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第4主日 (2022/12/18 マタイ1章18-24節)」。通常は、待降節第4主日はクリスマス礼拝となるが今年は25日が日曜日なので、例年とずれる。ちなみに、本日のヨセフへの告知の並行箇所はない。またマルコ伝にもヨハネ伝にも生誕物語は記録されておらず、ルカ伝の生誕物語ともカバー範囲も内容も一致しない。マタイ伝にはマリアへの告知の記述はない。クリスマスは華やかに祝われるが、恐らく生誕物語に関する記述は創作だ。私は、公生涯が始まる前のイエスは自分のことを神の子だとは思っていなかったと想像している。ヨセフの実子であったかはわからないが、マリアが母であることは事実だろう。使徒信条にある「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、」を告白しているので処女降誕を認める立場に立っている。正直に告白すれば建前だが、同時に正直にありえないことではないとも思っているので告白することに抵抗は感じない。その事実を心から信じられなければ信徒とは言えないと糾弾されたら返す言葉はないが、事実であろうとフィクションであろうと復活し昇天したイエスの存在に影響を与えるものではないと考えている。

福音朗読 マタイ1・18-24

 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
  23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
   その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ〔た〕。

ヨセフとマリアは夫婦となったのは事実だろう。ヨセフがどう人間イエスと接したかには興味があるし、十字架のイエス、復活のイエス、昇天したイエスをどう考えていたかにも興味がある。福音のヒントの筆者はカトリックの神父だから仮に完全には信じていないとしても書けることは限られるだろうが、ヨセフは自分の子として人間イエスを育てたのだと思う。男性は関係がなければ自分の子でないことを知ることはできるが、関係があっても自分の子であるかどうかはわからない。もし、この聖書箇所の記述が事実であれば、相当変な話だが、神の声を聞いたとヨセフが信じたのであれば、まあ従うだろうと思う。「夢に現れて言った」だと、相当怪しい。そう思い込もうとしたと捉えることもできるし、何があろうとマリアと結婚したいと思うほど惚れ込んでいたのかも知れない。どのケースもありだと思う。

それに信仰的な意味を与えようとすれば、福音のヒント(1)にあるように正しさを与えることができるだろう。現実問題として教会組織というか構成メンバーであるキリスト教徒が生誕物語に特別性を欲するが故にこの物語は受け入れられたのだろうと思う。最初から普通ではなかったという物語だ。

人間イエスが生まれてこなければ、復活のイエスもない。だから、福音のヒント(3)にあるように「わたしたちはクリスマスを2000年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません」は当然のことだ。私にとっても、ただの赤子ではない。彼が来なければ今の私の人生もないからだ。心の底から喜ばしく思う。

現代には人間イエスはいない。しかし、科学的にはありえない信仰告白を告白させたイエスという存在の実在を私は確信している。そして、今も人間社会にも私にも影響を与え続けていると考えている。だから、福音のヒント(4)にある3つの箇所の話は心に響く。現実には聖人君主になることなど出来はしないが、イエスは実在すると考えることで変わる行動はある。

イエスの誕生日を祝うために待つ気持ちは本物だ。

※冒頭の画像はヨセフの夢からたどった'Joseph's_Dream', painting by Gaetano Gandolfi, c. 1790。Wikimediaの記事によればヨセフの夢は4つあり、この夢は最初のもの。Saint Joseph - 聖ヨセフという表現を使うが、私は聖という冠が好きでない。どの人も一人の人間であり素晴らしいところもあれば欠点もある。聖人など存在しない。人間イエスも完全であったとは思わない。