新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第25主日 (2025/9/21 ルカ16章1-13節)」。並行箇所はない。3年前の記事がある。

福音朗読 ルカ16・1-13

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
 1「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


誰でも、管理人の役割、誰かの富の一部の運用を任せられることはあるだろう。その結果、自分の富も増える(報酬がもらえる)が、突然その仕事が取り上げられることもある。その時、残っている時間で何ができるかを考えることになるが、自分だったらどうするだろうかと考えて見るのも面白い。

福音のヒント(2)では、「不正にまみれた富」という言葉に注目している。富と訳されている言葉はμαμμωνᾶς (mamónas)でマタイ伝とルカ伝にしか出てこない単語で、13節の「神と富とに仕えることはできない」(マタイ伝6:24が平行箇所)の富には同じ単語が用いられている。少し興味深いのは、英語訳ではwealth、mammon、moneyという3つの単語が訳によって用いられていることがある。Wikipediaのマモンで触れられているが、英語版のWikipediaではヘブライ語でお金(英語でMoney)を表す言葉と書かれていて、現代では富を意味すると書かれている。私の環境で「富 金 違い」をググると以下のように出てくる。


AI による概要
「富」は価値あるもの全般を指すのに対し、「金(お金)」は富を得るための手段として機能する交換価値を持つものです。富には自然資本やインフラなども含まれますが、人間が滅亡すれば価値がなくなるお金は、必ずしも富ではありません。お金は人を動かす力を持つシンボルであり、富を蓄える機会や、生活を豊かにするための手段として機能します。 


今日の箇所の内容から考えると金(かね)と訳すほうが適切に感じられるが、直接金を受け取っているわけではないので富と訳す方が良いという考え方もあるだろう。

その前の不正にまみれたという言葉はἀδικία (adikia)という単語で共観福音書ではルカ伝のみに出てくる単語だが、使徒行伝、パウロ書簡で使われていて、概ね不義という訳が当てられている。コリント前書の愛の見出しがつく部分で、「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」と訳されている部分で使われている。

現実的には金がなければ生きていけないから、どうしても金に依存してしまう。「神と富とに仕えることはできない」に納得感はあるが、無理ゲーとも言える。現実的な解釈としては、強欲になるなというところなのだろうが、金の魔力は強く抗いがたい。

最近、資本の力のすごさと恐ろしさが私には感じられる。AI関連株が加熱状態にあるが、その金の力が技術者を引き寄せることで、とんでもない勢いで技術が進歩している。ファイゲンバウムは「知識は力なり」という考え方で人工知能を進めた。大量のデータを用いる生成AIは、彼の考え方の現代的な実装と言える。それはいわゆる力技での問題解決で、エンジンに頼った産業革命と類似性がある。かつて産業革命に乗れたか否かで富の偏在が起きたのは現実であり、勝ち馬に乗るためには投資するしか無いと考える人は少なくない。投資マネーはἀδικία (adikia) μαμμωνᾶς (mamónas)だろうか?不義かどうかは容易に判断できないが、あまりに多くの金が動くことで、ものすごいスピードで事態が動き、私にはとてもついていくことができない。投資の主体となっている人たちも、何が起きるのかは分かっていないだろう。風が吹いているから、その流れに従っているだけだとしか思えない。金の力の前に倫理観は飛ぶ。

戦争が起きれば特需も生まれる。日本の都市開発や戦後復興もそういった特需に支えられたのは現実であり、生活の立て直しには金がいる。借金であっても大きな金が手元にあれば、開発を加速できるのはAI投資と変わらない。それぞれのプレーヤーが知恵を絞って、やるべきと思うことをやっている。

福祉にも金が必要だ。社会保障制度の整備で原資を確保するのは愛の行為と考えることができるが、持てる金以上の金は使えない。どこかで帳尻は合わせることになる。

今日の聖書箇所には様々な解釈がある。福音のヒントでも2つの読み方に触れている。別の解釈としては、3年前の記事のようなものもある。もう一歩踏み込めば、富の再配分が起きたと読むこともできなくはない。搾取されているものの持続性確保への貢献を善しとする考え方もあっても良い。まあ、解釈に無理はあるが、金を預かるものが今までのやり方が通用しなくなった時にどう考え直すか、あるいはどう考え直すべきかと考えるとあって良い解釈だとも言える。そのまま消えていくという選択しかなさそうに思える時でも、やれる範囲で善いことをやれば良い。

金は元来、不義ἀδικία (adikia)あるいは欲望がまとわりついているものなのだろう。その欲望にまみれた金の一部を善行に使うものも出る。「神と富とに仕えることはできない」は、欲望にまみれた金主と、神とに同時に仕えることはできないという風に読むことはできる。それでも、神の国の到来に資するように制度設計ができる余地はある。金主の意向を尊重しないわけにはいかないが、良く考えれば正しい道にお金を使う方法は見つかる、と信じても良いだろう。現実でも、儲かりそうなら善悪に関係なく投資すると考える人ばかりではない。

※画像はWikipediaのマモン経由でたどり着いたイメージで、眺めていると自分の心の中に住む強欲に見えてきた。なかなか、欲に勝つことはできないが、まずは自覚的であることが必要なのだと思う。