今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第25主日 (2022/9/18 ルカ16章1-13節)」。最後の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」には猛烈なインパクトがある。今日の箇所にも並行箇所はないが、最後の節に類似の記述は、マタイ伝6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」にある。福音のヒント(3)では、この節は独立した教えと考えるのが適当と主張している。
福音朗読 ルカ16・1-13
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
1「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「ある金持ち/主人」を単純にただの大金持ちと考えると、自分の手にあまる富をもっている人なのだろう。自分で管理できる以上の富をもっているから管理人を雇う。管理人を管理できる能力があれば管理人は無駄遣いはできないだろう。そこから考えるとその主人は保有する富に対して能力が不足していることになる。自分で富を作り出したのではなく、相続で得たものかも知れないし、自分で富を作り出したとしても運も重なって儲かりすぎて手に余るようになった可能性もある。ともあれ、告げ口をする者が出てくるまで管理人を管理しようとしていなかった。
仮に主人は相続者で、管理人は先代に使えていた番頭だと考えてみよう。
その管理人は優秀で信頼に足る人物でなければ先代は番頭にすることはない。番頭になって多くを任される前は先代に厳しく管理されていただろうし、容易には手を抜くことはできなかったはずだ。そして先代は番頭の働きに応じて適切な報酬を与えていただろう。代替わりした相続者に先代のような経験と能力がなければ自然と緩む。監視の目が弱くなると徐々に劣化してしまうのは避けがたいことだ。しかし、番頭には番頭の能力があるから、恐らく管理はできていた。管理ができるからごまかしもできるわけで、少しずつ緩んでいったのだろう。やることはやっているんだしこの程度のことは良いだろうという慢心が傷みを広げていく。企業体としてみると、こういう問題が起きるころには外部からは隆盛に見えていても既に凋落は始まっていて、富に含まれる不良債権比率は高まっている可能性が高い。そしてついに番頭は主人からの信頼を失った。
主人の信頼が失われてしまった時、番頭は労働者側に仕えることを選んだ。実際に労働者側、債務者はその番頭を受け入れるだろうか。
貸付金が多大になっていたとすると、債務者は疲弊して破綻する。破綻してしまうと貸付金も回収できない。もし、一定量の債務超過状態の人がいたとして、債権放棄で持続可能な環境を作ることができたら、主人の富は簿価は毀損するが、キャッシュフローで見れば有利になるケースはあり得る。また、番頭が組織する組合が機能する可能性はある。ただし、番頭がよほど優秀で、生産力を見極めて上手に債権放棄をやらない限り良い方向に向かうことはない。
主人は、恐らく自分で管理する能力はなく、番頭を解雇するリスクは大きい。少なくと賃借契約は流動性が低いから、簿価が大きくても管理能力が下がれば破綻が頻発して回収は困難になる。山のようにいる債務者を新しい管理者に管理させるよりは、何割かを切り離して、現在の番頭に管理させることができるなら、主人にとってのメリットにもなる。
番頭は、もはや主人のキャッシュに手を付けることはできなくなるが、新しい日常が始まることになる。彼の築いてきた能力を活かし続けることもできる。第一、債権放棄で番頭を攻めても、回収は期待できない。番頭の活動を認めるほうが、今後のキャッシュフローには有利になるだろう。苦笑いしながらも、認める方が現実的な選択となる。
富に忠実だった番頭は、人に仕えるものになった、搾取から民を救うものになったという解釈もできる。まあ、箇所の読み方としては無理筋だとは思うが、福音のヒント(4)にある「罪のゆるし」がテーマだったと考えると、富に仕えていた人が機会を得て人々を自由にするという神の意志を実現する側に変わったという話はそのテーマに沿っていると考えることもできなくはない。罪を犯したことがきっかけとなって救いの道に入ったという不思議な話となる。
ここまで考えると、ルカ伝19章の徴税人ザアカイの話が想起されてくる。徴税は再配分の原資となるから社会の運営に資するものだ。徴税自体は悪とは言えない。そして、徴税業務を担うものには相応の報酬がもたらされるのもおかしなことではない。ただ、富に仕えてしまうと裁量の範囲で多く集めてしまうこともできるだろうし、それを自分のものにする誘惑に抗うことは難しいだろう。国家も今日の管理人の話と同じで、ちゃんと取り立てる能力があるなら、目に余らない限り不正は大目に見る。そういう構造の中に慢心や油断は忍び寄る。ビジネス的に成功している時には危機も迫ってくる。能力も永遠には維持できないから、慢心や油断がやがて牙を剥いて主人に襲いかかってくる。ザアカイの場合は、イエスと食事を共にできたときに慢心から開放され回心した。富はないと困るが、神に仕える幸せは大きい。多くの人の自由に貢献できるなら、生きていくことができる富があれば十分である。
一通り書き終わってから、不正な管理人のたとえでググって見たら、教皇のスピーチの翻訳記事があった。「イエスは『良い行いによって過ちを正す時間がまだある』ということを、私たちに保証してくださっているのです」という言葉は救いになると思う。
余談になるが、ルカ伝からはイエスの経営者的側面が垣間見える気がする。人間イエスはかなり賢かったように見え、知識量も多いだけでなく組織運営の知恵もある。今日の箇所は、ひょっとするとモデルとなるような事例があるのかも知れない。一貫して感じるのは、経営の目的を富や独裁的な権力を築くというところに置くのではなく、持続性を失うことなく民の自由、言い換えれば人権を拡大する方向に動いている点だ。コロナ禍や国の対立が不安を刺激すると、奪い合いの方向に進みそうになるが、その道に出口がないことは明らかだ。企業も国も富を築くことを経営の目的と勘違いすることが無いように、持続性を軽視することなく、あまねく人権の拡大に向かうような経営を進めていくことが結局は幸せへの近道だという福音を伝えることができる人は、その道で力を尽くしたら良いと思う。