今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「受難の主日 (2025/4/13 ルカ23章1-49節)」。マタイ伝27章、マルコ伝15章に並行箇所がある。3年前の記事があり、読み返すと新鮮な驚きを感じた(自画自賛?)。
福音朗読 ルカ23・1-49
〔そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは〕1立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。30そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
マタイ伝では、ユダの自殺記事が挟まれていて、マルコ伝では「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」という話が記されている(より細かい比較はWikipediaのCrucifixion of JesusのTextual comparisonが参考になる)。恐らく史実に一番近いのはマルコ伝だろう。ルカ伝では「イエスがもはや何もお答えにならなかった」が含まれているのが気になる。申し開きをする意思はなかったということを強調しているのだろうか。「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」」は、実際に行うのは不可能だろうから、多分ルカ伝記者の解釈と考えたほうが現実的だと思う。福音のヒント(2)では好意的に書かれているが、私は事実はなかったと思う。ただ、記者の解釈だとしても、もしイエスにコミュニケーションするチャンスがあったのであれば、こういう事を言ったとしても違和感はない。それでも、マタイ伝24章、マルコ伝13章の小黙示録をここに持ってくるのは演出がすぎると思う。リアリティが感じられない。
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」はとても印象的だ。この発話はほかの福音書には出てこない。これも恐らく史実ではないだろう。私は、この解釈がEUの死刑廃止(禁止)を導いたのだと考えている。異論は出るだろうが、虐殺を重ねるネタニヤフも、権力のためなら何でもするトランプも、恐らく本質的には自分が何をしているのか見えていない。同時にリベラルと言われる人の多くも簡単に人を裁いてしまう。誰もが判断を間違える。だから、命を奪ってはいけないという考え方もあるが、イエスが復活したように無惨な形で殺してしまっても、救われるべき人は復活すると考えれば死刑を執行しても必要があれば神が救うのだから良いのだという解釈だって成り立つ。一人の人の(死後の)命の問題として捉えれば、どちらの解釈も「あり」だろう。
「御国を(この世に)来たらせ給え」という祈りとあわせて考えると、性善説が現実になるという解釈も成り立ち得るから何をやっても許すべきという考え方も「あり」だろう。それでも現実にあわないので、フランスなど多くの国では事件が起きると、逮捕の前に撃ち殺してしまう事例がなくならない。ある意味で、現場を眼の前にしている人と、遠くで(サンヘドリンのように?)見ている人の視点、あるいは認識の埋めがたい溝と考えられる。個人的には、それでも理想を掲げたいという思いはあるが、現実は厳しい。
物理的あるいは政治的な力を持たない人を代表するのが「ガリラヤから従って来た婦人たち」だ。力が足りなくても遠くに立って、これらのことを見ることはできるし、その行為が全く無力なわけではない。活きている間に報われなくても、見ていた人に注目する人がいれば、やがて大きなうねりを生むこともある。だから、短期的な対処だけにとらわれずに「よくみる、よくきく、よくする」を貫けば良いのである。
たまたま、この記事を準備している今はボストンで複数の国からの参加者がある会議の時期でもある。私から見ても、学者たちは地に足がついていないように見えることがあるし、眼の前ばかりを見ているように見える人とも話をしている。何が良いのかはすぐにはわからない。だからこそ、2000年前の史実を追求する動きは大事にしたら良いと思っている。
※画像はWikipediaのChrist Crucified (Velázquez)経由で引用させていただいたもの。