宗教指導者は大変だなあと感じた

今日、241日ぶりに砧教会の牧師を見た。私が出席した火葬前式の司式者だったからだ。

念の為に最初に触れておくが、砧教会の総会決議では牧師の無実は確定している。必用に牧師の問題を追求した私は居場所を失ったと感じて、50年の家を去った。牧師との関係は完全に破綻していて、牧師から関係修復のメッセージを受け取ったこともない。つまり、もう修復の意思もないということだ。私自身には、彼は破戒坊主に見えているし、教会役員会は組織防衛を優先して不義を押し通した存在である。今日ニヤつきながら「萩原さん」と声をかけられた時には、嫌悪感で後ろを向くのが精一杯だった。

彼は教団の式文とは異なる箇所を引用して何と「主は憐れみ深く、正義を行われる」と言い放った。私から見れば、その汚れた口で正義を語るのか、である。正直言って、吐き気を催した。式の最後に祝祷を聞いた時、汚物を頭からかけられた気持ちになった。私の中では、今までで最悪の葬送となり、塩をまきたいと思った。

彼は砧教会では無罪である。だから、正当な牧師であり、公式には何の問題もない。客観的に見れば、彼は私から理不尽な恨みを受けただけである。しかし、私は今でも彼に真実がないことを確信している。現時点では、議論の余地もない。彼は、教会員の前で彼に不利な証言が出た瞬間に割り込んで止めた。教会員も何が起きたか理解できなかっただろうと思う。役員会は、従犯者のその証言を取り上げることもなく封印した。まあ、それは砧教会としては終わったことだ。

しかし、聖職者は信者にとっては、単なる一人の人間ではない。信頼関係が成立している限り、この世とあの世をつなぐ権威を感じさせるものであり、信者(私)がまがいモノだと思っている場合は、信者を騙して地獄に連れて行く邪悪な存在となる。

宗教に関わる是非は、この世で結審しても本当のことは時が来るまで分からない。結局は、自分を信じるかどうかという問題となる。

自分の心が怒りで満たされれば、周囲も不快にしてしまう。避けたければ、関わりを断つことだ。私には母に金井氏と私をどちらを取るかと聞くのが嫌で断る勇気がなかったが、私は父の火葬前式にでるべきではなかったのだ。逆から見れば、牧師は信者から依頼を受ければ、受ける以外の選択肢はない。もちろん、彼は自分が犯した罪をその評価は別として自覚していないはずがない。宗教指導者は大変である。誰しも、全ての人に解を与えることなどできはしない。彼は私の牧師で居続けることはできなかったが、金井氏が最善の成果を出せることを心から祈る。宗教は恐ろしい。

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