田川建三訳著 新約聖書 訳と註 第七巻 ヨハネの黙示録読了。これで昨年秋から読み始めたマルコ・マタイから続く「新約聖書 訳と註」シリーズ全8冊を読み終わったことになる。ほぼ、毎晩少しずつ訳と注を交互に読んだり、解説、後書きを読み直したりしながら読み続けた。気づきは多くあったが、特に印象深かったのは、ヨハネによる福音書と、ヨハネの黙示録だ。田川氏の解釈では、どちらも大幅な加筆がされていて、その文体などから原著者と編集者の部分は分離可能としている。実際、田川氏が加筆部分と書いている個所を完全に飛ばして読んでも筋は通るし、読み飛ばすことでメッセージが明確に伝わってくることに気がついて驚かされた。
ヨハネ黙示録の場合は、田川氏に従えば、ある種黙示録的なおどろおどろしい部分の多くが加筆であったことと、教会統制的なメッセージが加えられていることがわかる。2章、3章が加筆部分で私が受洗する時に選んだ3:20の聖句「見よ、我、戸口へと向かって立ち、(扉を)叩く。もしも我が声を聞き、戸口を開けるものがいれば、我、その者のところに入り、その者と食事を共にする。そしてその者も我と共に。」(田川訳)も加筆部分とされている。本書を読むと、それが編集者の意図的な加筆であることに納得がいくが、私はまんまとその意図にはまってしまったことになる。受洗時を含めてながらく、ヨハネ伝も編集者の誘導にはまっていた。私はクリスチャンファミリーに生まれたわけではなく、小学生の時に母の影響で教会学校に通うようになったので、教会学校の居心地のよさを感じながらもアウトサイダーである自覚はあった。インサイダーになれたら良いと思いはしたが、だからといって信仰告白を行えるわけではない。どちらの編集者もアウトサイダーを劣るものといった記述を行い、同時にイエスはあなたの直ぐ側にいるというメッセージを黙示録3:20のように巧妙に仕込む。黙示録への編集はおどろおどろしさを強め、簡単には読み解けないが何かここに真理が書かれているのではないかという形に変え、インサイダーになれば読みとけるような幻想を与えて壁を高くして関心を高めているのだろう。
田川氏はかなり思い切ったことを書くが、聖書学者は学問的な分析を行うので、宗教的権威者とは違う見解に至ることは少なくない。学者は学者としてのプロの矜持があるから、教会にとって不都合なことであっても、プロとしての見解を示す。しかし、プロとしての見解を示すことは弾圧を招くリスクがあるし、生き残っていくためにプロの矜持を捨てて迎合的なメッセージを発することもあるだろう。最初は小さなごまかしであっても、嘘(政治的迎合、忖度)は発信者を蝕んでいく。田川氏の他の聖書学者への批判は、「安易な迎合をしてんじゃねーよ」というメッセージか「プロとしての能力が足りてないんじゃね」というもので、それは田川氏自らにも向かう。このシリーズは田川氏晩年のものだから、もう保身に興味はなく、遠慮なく書かれていることに感心する。無論、田川氏が常に正しいわけもなく、編集者仮説も本当に正しいのかはわからない。しかし、田川氏の視点だとこう読めるのかという気付きは大きな学びとなる。
本著の解説と後書きには「原著者がこの文書を書いた基本の目的は、ローマ帝国支配の批判、それも上っ面の現象の批判ではなく、その世界支配の基本構造、すなわちローマの町を中心として地中海地域全体を支配する資本主義的経済支配の批判である」と書かれている。世の終わりの黙示ではなく、「帝国の貨幣による帝国全体の経済支配」の崩壊、同様に異邦人を排除するユダヤ教宗教支配勢力の破綻もを予言(論理的な予想)を書いた書物ということだ。びっくりしたが、解釈としては十分成り立つ。ただ、その後の処方箋が書かれているわけではない。
黙示録終盤の21:22に「そしてその町に神殿は存在しなかった。/私は神殿を見なかった(註)」と書かれている(原著者と推定されている句)。「そして諸民族がその町の光の中を通って歩きまわる。」とあり、これを原著者が考える理想的姿と捉えるのが適切だろう。
ヘブライ書同様黙示録も本来は当時の宗教論文(理想社会論)と捉えて読むとすっきりする。
論文は、毎日の生活を変えるものではないが、長期で進むべき方向を決める上で参考になる。福音書のイエスの言葉やパウロ書簡は日々の生活を変える力がある。どちらも大事で、397年のSynodで正典として採用されたのは極めて興味深い。会議参加者がどのような意識をもって議論していたのだろうか。