国旗損壊罪

国旗損壊罪法 が制定されようとしている。なぜ専制と隷従を指向しようとしているのか私には理解できない。

私は国旗を持っていないし、国旗に愛着を持っていない。君が代は歌えるが、今は愛着はない。スポーツ競技で国家が掲揚され国歌が演奏されても誇りは感じない。では、勝ち残った人が「日本人」であることを嬉しく感じないかと言えばそんなことはない。同胞が輝かしい成果を出すことを嬉しく思う。それを支える国家の貢献があることは明らかだ。かつて東側諸国が連戦連勝だったのは、破格の待遇やドーピングなどの競技者を犠牲にしながら「強い国家」を示すためだったのは少し考えれば誰でもわかる。輝かしい勝利は搾取の結果だ。「強い日本」を目指すのを認めるということは、権力者が誰かの犠牲を強いることを許容することにほかならないのだが、なぜかそれが民から支持されているのだ。大量死を招いた戦前の記憶は失われつつある。

国旗が目立つ地には安心感はない。最近の経験で沢山の国旗を見たのは、3年前のトルコ・イスタンブールだ。既に大統領選挙は終わっていて権力の集中が一層進んでいた時期なのだと思う。国旗が多く掲げられているということは何らかの脅威に直面しているか、あるいは存在しない(即時対応を必要としない)脅威をだしにして権力者が権力集中を志向しているかのどちらかだと私は思っている。アメリカでも共和党が優勢かどうかは国旗をカウントすれば概ね分かる。エストニアでは国旗はよく見かける。恐らく今もロシアの脅威を強烈に感じているからだろう。日々の暮らしに追われている人々は今現実に起きていない侵略のリスクを意識し続けることはできない。だから、国旗を掲げることで国の独立の重要性を思い出させようと考えるのだろう。

ただ、エストニアの人たちは強いエストニアを目指しているとは思えない。現実を考えればバルト三国の小国がロシアと対峙できるわけがないのは明らかで、ロシアを変えられるとも考えていない。専制と隷従の時代に戻りたくないだけだ。

今の日本は違う。かつて日本は中国に多大な損害を与え、多くの人を殺したのは史実である。中国の人が日本を恨むのは自然なことだ。個人として仕返ししてやろうと思っている人も今でもいるかも知れない。しかし、そういう人でも戦争の記憶があればその悲惨さを思い起こして自制できる可能性は低くない。ただ、どの時代にも煽るものは現れる。怒りをエネルギーとして権力を集中させたい人は旗印を頼りにする。

国家損壊罪は、かつて、高市早苗、長勢甚遠、平沢勝栄、柴山昌彦が提案して廃案になった。こういう政治家を選べば、やがて国旗掲揚を行わないものを非国民と呼ぶようになり、殺しても良いものとみなすように人心を変えてしまう。一度、暴走が始めれば国が滅びるまで止まることはない。安倍、高市あるいは麻生は「専制と隷従」こそがあるべき姿だと言っているのと同じだ。自由を自発的に差し出すような行為を私は理解することができない。一言にまとめれば「目を覚まして現実を見よ」である。強者が見せたいFake現実ではなく、事実に根ざす現実を見ないと結果的に自分の生命が危機にさらされる。

一国だけで進められることではないが、国家主権は小さくなるに越したことはない。どこに生まれようとも人間は人間だ。

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