新生活292週目 - 「「羊の囲い」のたとえ〜イエスは良い羊飼い」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2026/4/26 ヨハネ10章1-10節)」。3年前の記事がある。並行個所はない。

福音朗読 ヨハネ10・1-10

 〔そのとき、イエスは言われた。〕1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
 7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。


福音のヒント(4)には「10節の「命」はギリシャ語では「ゾエーzoe(ζωή)」です。続く11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉があり、こちらの「命」は「プシュケーpsyche(ψυχή)」です。」と書かれている。BSBではどちらもLifeと訳されている。

羊が民衆であれば、羊飼いは為政者と対応着けられるだろう。ファリサイ派の人は「わたしより前に来た者」で、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と言われている対象となる。強くて頼りになると思って権力者に従っていると戦場に送られてしまうことがある。盗人は、自分のために人の命を消費する。しかし、その盗人の多くは自分を良い羊飼いだと思っているのだ。民衆は権力は恐れても、権力者を大して信頼していない。しかし、それでも依存してしまう。そして、権力はその勢力下の命を使い捨て、勢力範囲外の人の人権を認めない。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」は、ある意味強烈なメッセージで、誤って盗人に従ってしまっている状況から、救い出すという意味とも取れる。つまり、この世の人権を認めない権力者に従うことなく愛の世界に生きよということだ。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」もインパクトが大きい。ざっくり解釈すれば、私たちが主に従う者であればイエスはその人の名を呼ぶので、もしその人がイエスの声を知っていれば、あるいは、そのメッセージが真のものであることを悟ることができればついて行けるということで、聞き落としてしまうと命(ζωή)を受けることはできないということになる。結構怖い。

「殺すな」という掟はわかりやすいが、その範囲をどこに置くかで解釈は変わる。旧約は「殺すな」の対象は選民たるユダヤ人に限定されていると解釈していると思う。つまり、今で言うパレスチナ人はユダヤ教の「殺すな」の掟の範囲に含まれないという解釈ができることになる。アメリカの福音派キリスト教徒も含まれないとも解釈でき、支配下に入るのであれば一定の権利を認めても良いという上から目線ともとれる。また、罪を犯したものを石打ちにする規定などがあることから、道を外せば同胞であっても「殺すな」の対象から外れてしまうのである。無敵の神で、神官も無敵、権威主義の権化となる。イエスは、それは神が望んだことではないと言い切った。不義の女の石打ちを止め、病気で同胞としての身分を失って追放された人に寄り添った。当時同胞の範囲に含まれていなかったサマリヤの人に対しても同じように接した。

人は誰一人として自分の命を永遠に守ることはできない。同時に豊かな命(ζωή)を希求しない者もいない。絶望して命を捨ててしまう人もいるが、だからといってその人が命を望んでいないわけではない。気持ちよく、安心できる状態にいられるのであれば自分の命を軽んじることはない。

地獄の沙汰も金次第と考える人もいるだろうが、その人も死ぬ。つまり他人を踏み台にして多少長生きしたとしても、わがままを通すことができたとしても決してその道では豊かな命を得ることはできないのだ。

権力者に隷従すれば、何らかの利得を得られるかも知れないが、その行為は本来得られるべき命を放棄していることと変わらない。それはとても残念な状態だと思う。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」は今もずっと続いている。一人の人間の生涯とは異なる長さで声は出ているから今もキリスト教は無くなっていない。そしてそれを思想化した「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」への希求は日本國憲法の前文にも採択されている。アメリカの進歩的な人の意見が多分に入っているが、日本をキリスト教国としているわけではない。親鸞の思想からでも同じ文章を導き出すことはできるかも知れない。本質的に選民思想の放棄を意味している。自分たちが支配者になるのではなく、共にかような国際社会の形成を図ることを私たちの意思とするということだ。

3年前の記事では、約70年前の日本に遡って「徐々に権力の慢心が目につくようになると共に強い国という妄想の台頭とともに経済的な凋落は始まっていく」と書いている。3年前の4月には、岸田文雄首相の暗殺未遂があった。前年の7月には安倍氏が暗殺されている。権力の慢心は、自分は他の人間とは違う特別なものだという勘違いによって起きる。今のトランプの行動などは、自己肯定感獲得のためには何をやっても構わないという状態に見える。残念なことに民主主義が化物を生み出すのだ。一度独裁指向の政治リーダーを選ぶと、民主主義はおこぼれに預かりたいという感情に基づく人気投票に堕していくリスクがある。日本は敗戦時に「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」を理想とした原点に立ち戻って、再び力に頼る国に堕することが無いよう注意すべきだろう。諦めなければ、きっと平和を希求した敗戦時の初心に帰ることができる。私は、逆説的だが敗戦が日本の人びとに非排他的な理想を意識させ、様々な運もあって経済成長の果実も得られたのだと思っている。慢心することなく、着実な歩みを進めるのが望ましいと思っている。

キリスト教徒であることを表明する者は特に深く反省しなければいけない。力に頼って事実を曲げて自分の権益を守ろうとしたり、他人を踏み台にして願望を成し遂げるようなことはするべきでない。現実は厳しく、一人より多くの集団を形成したほうが理想の達成に近づくことができるが、数の力は慢心を招くリスクがある。不断に(受洗時の)初心への回帰を意識すべきだろう。主の祈りや聖餐式への参加は良い機会を与えてくれている。

※冒頭の画像は、WikipediaのGood Shepherd経由で引用させていただいた3世紀に良き羊飼いをイメージしたと思われるカタコンベの壁画