新生活136週目 - 「「羊の囲い」のたとえ〜イエスは良い羊飼い」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2023/4/30 ヨハネ10章1-10節) 」。並行箇所はない。

福音朗読 ヨハネ10・1-10

 〔そのとき、イエスは言われた。〕1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 
 7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

福音のヒント(2)に「当時のパレスチナの羊飼いの生活は半遊牧生活であったと言われています」とある。遊牧生活というのは容易に想像することはできない。WikipediaのNomadic pastoralismを読むと、どうやら狩猟や野生の野菜や穀物を収穫するところから、家畜化、農業化への進化の過程で遊牧民が生まれたらしく、当然農民は土地に固定化され、遊牧民は家畜をつれて移動しなければ生きていけなかったから、恒久的な定住はできない。相互に関係を持ちつつ、遊牧民は地域間の物流を担う商社的な機能も有していったように読める。羊の囲いといっても、ずっとそこに囲っていることは考えにくく、福音のヒントにあるように「各地に設けられた囲い」があって動き回っていたと思われる。

ダビデは羊飼いだったとあり、遊牧民の集団の若者だったのだろう。しかし、やがて王宮に住むようになり、ソロモンにはもはや遊牧民の匂いを感じない。

イエスが生きていた時代はローマの都市型生活がシステム化、フランチャイズ化していて、地方都市も発展して商業活動は遊牧民の兼業ではなく、専業化が進んできた頃だろう。同時に昔からの土着農家も遊牧民も共存していたものと思われる。都市化が進むと、都市住民の腹を満たすための計画的な農業、牧畜が進み、ノマドは肩身が狭くなっていたのではないかと思う。

羊を扱う遊牧民にとっては、上手に繁殖させ、安全を守り、商品を高く売って、交易にも長けている人が地位を得ていったように思われる。結構、実力社会だったのではないかと思われ、血統の良さだけでは生き残れない。武力闘争が注目されるが、ある程度の期間で考えれば、表面的な強さより経営力が優劣を決める。遊牧民の集団は自己の独立性を維持したいだろうが、社会システムに取り込まれていく。官僚機構は知の蓄積に不可欠だから、社会的にはファリサイ派の質は独立の維持と密接な関係にあったはずだ。

官僚機構は王を守るという機能と民を守るという機能があり、どちらかだけに集中することはありえない。おそらくイエスの時代はローマの支配を受けていたことから民を守るより体制を維持することにより重きをおいていたのではないかと思われる。ただ「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあるように、自分たちは民を守る存在だと自負しているからイエスの言葉が耳に届かない。

ふと、日本の敗戦後の歴史を考えてしまうと、とにかく国民が食えるようにならなければどうにもならないといった状況が1956年の「もはや戦後ではない」という宣言まで続く。その後岸信介が台頭した。単純化すれば民<国という価値観が再び埋め込まれた時期となる。その後、やはりなんと言っても経済という時代は続くが、徐々に権力の慢心が目につくようになると共に強い国という妄想の台頭とともに経済的な凋落は始まっていく。

もちろん、個々人によって考え方は異なっただろうが、どうも当時のファリサイ派等指導層は「かつての強いイスラエルを取り戻す」方向に動いていて、民<国の価値観が強かったのではないか。政治がうまく機能しなければ国力は上がらない。しかし、仮に官僚が優秀でも民が力を出して成果につながるようなシステムになっていなければ、明るい未来が開けることはない。エリートがすべてを決めるという考え方は現実に合わない。エリートの存在は重要だが、エリートが王を向いてしまう、あるいは権力の維持に執着してしまうとやがて下降局面に入ってしまう。権力の維持に執着すると排除の論理が台頭してくる。人間イエスの排除は典型的な駄目政府の所業と言えよう。

今日の箇所は平行箇所もなく、イエスがこの箇所の発言をしたとは私は思わない。ヨハネ伝のイエスはかなり権威主義的なイメージがある。しかし、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」は復活のイエスを解釈する上で本質的だろう。民>国である。体制は民を支えるものという考えで、民は国>民に立つ体制についていくことはないという声明と考えてよいだろう。

実際には、私こそ強い国を確立して民を守ると扇動する者に騙されてしまうことは少なくない。ましてや、多数が集まれば正当性が信じられてしまう事例は少なくない。民主的に選ばれた独裁者が多くの命を奪うのを私達は知っているのに、権力にへつらいがちである。一人では生きていけないから、群れを作りたくなる。群れには恒久的である必要はないが、その時点でのリーダーは必要となる。

ヨハネ伝のイエスは教会にその権威を与えているように読めるのだが、私にはしっくりこないところがある。体制は権力を生み、体制が拡大する内に権力は必ず腐る。おそらく、権力の固定化は良い結果を生まない。聖霊が働く時にそれに従うという流動性が必要なのではないだろうか。

今日の箇所の後ろ、18節には「これは、わたしが父から受けた掟である。」とある。イエスは、自分の力と言っているわけではない。指導者は、民のための命を捨てる覚悟がなければいけないと言っていて、自分に権威を与えてはいけないと言っているのだろう。排除の罠に落ちてはいけない。排除する者は「彼らはその話が何のことか分からなかった」状態にある。人が悪人なのではない。慢心しているだけなのだと思う。しかし、慢心は人を不幸にする。

※画像は、Wikimediaから引用したゴッホのEncampment of Gypsies with Caravans