新生活283週目 - 「誘惑を受ける」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第1主日 (2026/2/22 マタイ4章1-11節)」。3年前の記事がある。福音朗読個所にはマルコ伝1章、ルカ伝4章に並行箇所がある。

福音朗読 マタイ4・1-11

 1〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


3年前の記事を読み直すと砧教会問題では本質的に事態が変わっていないことを思い知らされる。大変、不幸なことだ。また、正直、金井、佐分利両氏を哀れに思う。しかし、それは彼らが自ら選んだ道だから、自分の信念に従って生きれば良い。私も含めて、神は見ている。砧教会から去ってしまった人、復帰を拒否されている私がいる事実は消えることがない。金井美彦が主任担任教師にふさわしいとは私は思わないが、今もふさわしい人になっていただきたいと願っていっるし、自分自身の復帰も願っている。まあ、教会はこの世のものでもあるので、人間間の不和から逃れることはできない(少なくとも金井美彦に問題解決の意思も誠実さも私には全く感じられない)。初代教会やパウロの時代と変わらない。マクロで見た人間の性質は2000年を経ても変わっていないと思うが、制度・環境は進化していると思っているし、これからも進んでいくだろう。仮に、独裁者が一時の権力を得ても、長期で見ればイエスの教えは完成に近づいていくだろう。少なくとも、2000年の歴史が物語っている。

3年前には以下のように書いている。


荒野の誘惑では、悪魔は離れ去ったとあるが、現実では誘惑者である力あるものは誘惑者から敵に変わり驚異となる。荒野の誘惑でも懐柔を諦めただけだ。このくらいは良いだろうと懐柔策に乗ってしまうと足抜けは容易ではない。甘い話には悲惨な結末が待っている。悲惨を見る前に精算できることは精算しておいたほうが良い。それは個人でも集団でも変わらないが、大きな集団が堕ちると悲惨も甚大となる。小さな脱線の内に愛の道に戻ったほうが良い。


様々な「まさか」はあるが、まさかアメリカという大きな集団が今のような状態になるとは思わなかった。3年前の23年の時期には、21年で無事正常化したと安堵していたのだ。改めて、「小さな脱線の内に愛の道に戻ったほうが良い」と思うが、世界中に愛の道からの脱線の種がまかれて育っているのが現実だ。一方で極右と呼ばれるような人の中にも冷静な情報発信があり、幸い雪崩のような崩壊には至っていない。この世の権力者、権力指向者は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という誘惑に常にさらされていて、権力が大きくなるのと誘惑が大きくなるのは正相関にある。現実は厳しいが、長期で見ればイエスの教えは完成に近づいていくだろう。そのために出せる力を出すのが「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」ということだ。他人事とせず、自分のできる事をやるしかない。傍観者で避難する人は湧いて出るとしても、真実と思うことに忠実であるべきだろう。

受洗時のイエスに聖霊は降った。その瞬間にイエスは、選挙で選ばれるといった人による支持ではなく、神の支持を得た。それだけに荒野の誘惑は激烈なものだったと思う。ひょっとしたら、他にも同じような状態に置かれた人間もいたかも知れない。しかし、イエスが乗り切ったことによってこの世は変わり始め、今も変化を続けていると考えている。

イエスの、あるいは神のメッセージはどういうものかを聞き求めることは重要だが、聞くだけで行動が伴わなければこの世は変わらない。それぞれが直面する3つの誘惑を学びつつ、歩みを進めていただきたい。食欲が満たされなければ、例えば戦時に倒れた友人を食べる状態に陥ることもある、それ以外の生命的脅威に接した時の忍耐力も必要、さらにやっかいなのは支配欲だ。教会牧師や役員は、支配欲に堕ちてはいけない。もちろん、全ての人に支配欲の誘惑に堕ちるリクスがある。四旬節は自分を見直す機会を与えてくれる。暦のちからは思いの外大きい。

福音のヒント(4)には「四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を「荒れ野」に置いてみることだ、と言えるのではないでしょうか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。」とある。この言葉は、私には響く。現在、複数の仕事や役割を並行して進めているので、まあまあ忙しく、人と話したり協力してことを進める機会は多い。それは幸せなことなのだが、一人になって自分を「荒れ野」においてみることは容易ではない。しかし、繰り返し「神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみる」必要はある。

イエスを十字架につけよと熱く言い放った群衆の心理状況がどういうものだったのかを自分事として見つめ直してみるということでもある。

※画像はWikiart.orgのSatan Tried To Tempt Jesus James Tissot