新生活127週目 - 「誘惑を受ける」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第1主日 (2023/2/26 マタイ4章1-11節) 」。マルコ伝1章、ルカ伝4章に並行箇所がある。今週から四旬節、プロテスタントでは受難節が始まる。今年は2月22日が灰の水曜日で、暦の始まりとなる。福音のヒントの冒頭に「キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間」と書かれている。第1主日は各福音書の並行箇所が読まれる。

福音朗読 マタイ4・1-11

 1〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

昨年は、新生活76週目 - 「誘惑を受ける」、一昨年は、新生活22週目 - 「誘惑を受ける~ガリラヤで伝道を始める」を書いている。昨年は3月6日で画像にはオデーサの麦と青空の写真が引用されていた。ウクライナの戦争も1年が過ぎ、いつのまにか日常の一部になってしまった。一昨年はエジプトイスラエルの国境の写真。その記事の最後は

「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は難しい。少なくとも不義と戦えばそれで良いということは意味しない。敵がどれだけ邪悪に見えても、愛で応えるのがその道だろう。今年は、受難節を意識して過ごしてみようと思う。

と書いていた。昨年は

平時の思考をすれば、なぜ戦争を起こすようなことになったのかを考えないわけにはいかない。真実一路という言葉にもう一度向き合うべきだろう。真実一路は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」の別表現である。そこに「石にパンになるように命じ」るようなことはあってはいけない。

と書いている。この一連のブログが始まったのは砧教会の2020年6月7日の金井美彦氏と佐分利正彦氏が総会決議に反して会堂礼拝を開催し、責任のある人が嘘をついてはいけないと考えて事実を糾弾したのがきっかけになっている。プチ独裁者はプチ独裁者の間に止めないと社会が傷んでいくという思いは今も変わっていない。

福音のヒント(2)にある「物質的なものによって満たされようとする誘惑」、「自分の身の安全を確保しようとする誘惑」、「この世の富と権力を手に入れようとする誘惑」の試みは、この箇所でイエスが受けた試みだけではなくどこにでもあるものだ。深刻さに程度の差はあるが、物欲、保身、権力欲の誘惑に誰もがさらされている。「神殿の屋根から飛び降りよ」は保身への試みというより、自己正当化証明欲とでも言ったほうが良いように思う。クリアすれば自分が本物であることが証明できる。しかし、飛び降りて無傷であったとしても他人にとっては何の意味もない。不安払拭欲とでも言えばよいのかも知れない。

改めて読み直すと最後の「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」は権力欲、支配欲の本質を突いているように思う。人間は、自分一人の力で権力を維持することはできない。武力を委任する相手や、知力を支える人や、あるいは権威を幻想させる集団形成などで権力は成り立っている。軍隊や核兵器に頼って権力を維持しようと考えるのは、ひれ伏して悪魔を拝むことと変わらない。しかし、仮に悪魔に心を売って保身ができたとしてもやがて人は死ぬ。そして、誘惑に負ければ犠牲者がでる。

イエスは、自分のために力を使わない。イエスは、自分のために他の(神の)力を求めない。イエスは、力を有する人により頼まない。

荒野の誘惑は、人間イエスが覚悟を決めて伝道者に変わるまでに必要だったことを記してあるようにも読める。イエスは少なくない当時のこの世での成功者から忌み嫌われている。いくらイエスだろうが、嫌われて快適だったわけではないだろう。伝道者になってからでも権力者に頼りたくなる誘惑にはさらされている。弟子たちからさえイエス自らが権力者になることを求められていた。福音のヒント(2)で「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」を引用しているように、荒野の誘惑に終わりはない。

「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」はどう読めばよいのだろうか。

誘惑に負けずに乗り切れば、逆に様々な危険が押し寄せてくる。しかし、神は見捨てることはない。ということではないだろうか。人間イエスはそういう生涯を生きて死んで、そして復活したということだろう。とても真似はできないが、その教えに従いたいと思う。

荒野の誘惑では、悪魔は離れ去ったとあるが、現実では誘惑者である力あるものは誘惑者から敵に変わり驚異となる。荒野の誘惑でも懐柔を諦めただけだ。このくらいは良いだろうと懐柔策に乗ってしまうと足抜けは容易ではない。甘い話には悲惨な結末が待っている。悲惨を見る前に精算できることは精算しておいたほうが良い。それは個人でも集団でも変わらないが、大きな集団が堕ちると悲惨も甚大となる。小さな脱線の内に愛の道に戻ったほうが良い。

今は、救われたいから従うという風には思っていない。ただ、安易な道を選ぶより神に守られるような気がしている。

※画像は、TissotのJesus Tempted in the Wilderness。今年はNYに寄る予定があるのでブルックリン美術館に足を運びたい。