新生活76週目 - 「誘惑を受ける」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第1主日 (2022/3/6 ルカ4章1-13節)」。気がつくと受難節だ。

最初の週はイエスの受洗後の話。受難節/四旬節を設定した教会組織は、福音をどう伝えるか頭を絞ったのだろうと思う。福音のヒントの最初の部分は示唆に富む。

「四旬節」という言葉は「40日の期間」という意味で、その原型はイエスが活動を始める前に、荒れ野で40日間の断食の日々を過ごされたという出来事にあります。そこで毎年、四旬節第一主日に、この箇所が読まれます。四旬節は古代では復活祭に洗礼を受ける人の特別な準備期間でしたが、次第にすべての信者が復活祭をふさわしく迎えるために回心に励む期間となりました。現代では成人のキリスト教入信の準備期間という性格が取り戻され、この第一主日のミサの中で、復活祭に洗礼を受ける人の洗礼志願式が行なわれます。

私はイースター(復活節)に洗礼を受けたが、私の母教会では洗礼志願式は制定されていなかった。クリスマスは分かりやすいが、復活節は難しい。正直に告白するが、受洗した時には復活を強く意識してはいなかった。私が選んだ聖句は、黙示録の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」である。イエスが私の心の扉の外に立っていてノックしていると思ったのだ。その時、復活のイエスを意識していたわけではない。イエスさまから、こんな私のところに来てくれたという突発的な体験だった。

福音朗読 ルカ4・1-13

 1〔そのとき、〕さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 11また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
 12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

私は、受洗後に霊によって引き回された経験はない。悪魔の誘惑を受けた憶えもない。人間イエスの上に何があったのだろうか。福音のヒント(1)で「洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という聖句が引用されている。「聖霊が鳩のように目に見える姿で」は印象的なのだが、それが洗礼の瞬間ではなく、洗礼を受けて祈っておられる時、と時間差があったという記述には今回始めて気がついた。マルコによる福音書では、

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

とある。こちらの方が印象に残っている。鳩は出てくるが、イエスが見たとあって人の目に見える姿とは書かれていない。タイミングも「すぐ」だ。ただ、「すぐ」がどのくらいの期間を指すかは時代や場所によって変わるのでマルコ伝とルカ伝の差を特に意識する必要はないのかも知れない。今は、よくわからないが記憶にとどめておくようにしたいと思う。

洗礼者ヨハネから人間イエスが洗礼を受けたというのは事実だろう。この洗礼からイエスの活動が始まったと考えるのも適切だと思う。洗礼を受けるという行為は、人間イエスの決断で、霊が降って来るというのはイエスでないものの働きだ。なぜかはわからないが、人間イエスの上に特別な霊が降ったのだと思われる。

今日の箇所は、その霊がイエスを荒野に導いた話である。マルコ伝では「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とだけ書かれている。マタイ伝はルカ伝と順序は若干違うがほぼ同等の内容になっている。この時期はヨハネ教団に属していたと思われるので、周りの人に受洗後長らく不在だったが何があったのかと問われて答えた内容が伝承されて福音書に記されたと考えればよいのだろう。

洗礼式は不思議な体験だ。自分のときのことはともかく、何度となく他人の洗礼式に立ち会ってきたが、毎度特別なことが起きていると感じる。洗礼者の「信じますか」という問いに「はい」と答えるが、私はその瞬間に霊が働いていると感じるのだ。人間そのものはその前後で変わらないが、わずかではあってもその人が霊に動かされていると感じさせられることがほとんどだ。特別な役割を与えられた人の場合は、引き回されて日常生活から離脱するケースがあっても驚かない。自分の場合は、43年前に働いた霊は今も留まっていると思える事がある。自分の業なのか、霊の業なのかは区別がつかないが、自分がなぜこういう判断をするのか、祈りで霊の命じることを聞こうと努力する。声が聞こえようが聞こえなかろうが必要なときは決断しなければいけない。

福音のヒント(3)に「イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です」とある。「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」という言葉は納得感があるが、私は飢えを感じている時に食料を見せられて耐えられる自信はない。本来使うべきではない力を自分のために使う、「石にパンになるように命じ」る誘惑に抗うのは難しい。独裁者状態になってしまうと、自分の権力を守るために人を殺させたりするようになってしまう。悪さをしないで成功すれば、自分は特別だと思うようになる。あなたは特別なのだから、このくらいの範囲なら完全には白と言えない判断をしたって大丈夫ですよという囁きに堕ちる。力におもねる。イエスに起きたことと考えずに自分のことと考えると、おそらく誰もが日々悪魔の誘惑を受けていることに気づくだろう。

私はこの時イエスは完全に一人の他の人と変わらない人間だったと考えている。ひょっとしたら、何度となく時代を超えて霊は降っているのかも知れないが、イエスには荒野の誘惑を経ても霊が留まったという解釈はありえるだろう。福音書を読んでいると、イエスもミスを何度もおかしているように読める。もちろん単に理解が及ばないだけかも知れないが、おかしな言動はそこかしこに残っている。しかし、何とか踏みとどまって十字架の死を迎えた。死を経ても霊はイエスを離れず、復活の主イエスが残った。最初に霊を降らせた主体、霊を留まらせた意思が神ということになり、三位一体の概念が完成する。

今も霊は降る。

日本からは物理的には遠いところだが、かなり心理的に近い場所で戦争が起きてしまった。報道やSNSで様々な情報が飛び交い、ウクライナの一般人と思われる人がウクライナは必ず勝つと戦いに出ているのを目にする。何と戦っているのかはよくわからないし、それぞれの人の心の中で戦っている対象は一致しているようにも見えない。目に見えるところでは、侵攻してくるロシア兵であり、プーチンや取り巻きだろうが、それを乗り越えるだけでは終わらない。

現実を見ると、対戦車砲などの武器の供給があったことで、侵攻がある程度抑えられている。暴力があるところでは、力で対抗しないとどうにもならないことはある。ゼレンスキー大統領は力の行使を要求しているが、NATOの上席者は大戦を防ぐには直接的な武力行使は避けるべきだという姿勢を崩していない。日本も銃器は出さない。数字を見る限り、よほどのことがなければウクライナの人がウクライナの人と土地を守ることはできない。他の助けがなければ生き延びることは困難だ。それでも何らかの決断を下さなければいけない。

一方で、有事は平時の問題を隠蔽する側面がある。ソ連も民主化を指向したのだ。民主主義は主権者の知性が求められ、判断するために必要な情報が十分に開示され、それが判断の質を上げる方向に機能しなければ進歩しない。情報統制は権威主義者のみが行うことではない。陰謀論や扇動で判断の質は落ちる。戦争が起きるまでには、数々のこのくらいのことには目を瞑ろうという積み重ねがあったのだ。

有事に対応しながらも、小さな嘘をごまかさない方向に社会を動かしていきたい。誰しも失敗しないで生きていくことも、約束を全て守ることもできない。守れなかった人に社会は寛容であるべきで、ごまかした事には厳しくあるべきだ。私はウクライナ大使館に寄付をした。その金は武装に使われるかも知れないが、ウクライナの人たちが生き残るために彼らの自由意志で使ってもらいたいと思っている。有事に煽られた判断かもしれないが、私は決断した。

平時の思考をすれば、なぜ戦争を起こすようなことになったのかを考えないわけにはいかない。真実一路という言葉にもう一度向き合うべきだろう。真実一路は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」の別表現である。そこに「石にパンになるように命じ」るようなことはあってはいけない。

※画像は、Wikimediaから引用したオデッサ近郊の菜の花畑