今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第4主日 (2026/2/1 マタイ5章1-12a節)」。3年前の記事がある。並行箇所はルカ伝6章にある。
福音朗読 マタイ5・1-12a
1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」2022年(C年)年間第6主日 福音朗読 ルカ6・17、20-26
17〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
「山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」から、マルコ伝3:13「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」がbiblehubではクロスリファレンスとして上げられている。ただ、その後の展開は弟子の派遣で山上の垂訓の箇所ではない。ただ、この山という場所は同じ場所かも知れない。推定されている場所にはChurch of the Beatitudesという会堂が建てられている。湖畔との標高差は100m強なので私の感覚では山ではない。3年前に画像として掲載したTissotのBeatitudesのような風景ではなかっただろう。
福音のヒント(2)では並行箇所であるルカ伝6章に触れ「単純なルカの形のほうが元の形に近いだろう」と書かれている。ルカ伝では心の貧しい人々(マタイ伝5:3)ではなくシンプルに貧しい人々となっていて、改めて読み直すと、ルカ伝の教えの方がイエスが語りそうに感じる。「貧しい人々が見捨てられることはない」ということだろう。
しかし、聖書箇所として読み比べると、マタイ伝の方が印象に残る。繰り返しが多く、ひねりも多く、それ故に読み手が考えることを促す力が強い。今の言葉で言えば、アテンション・エコノミーの原型とも言って良いかも知れない。
3年前に私は「現実には何が本当に良いことなのかを私たちは知ることができない」と書いている。言い換えれば、全てを懐疑的に見て良く考えなければいけないということだ。また、考えているだけでは進歩に貢献できはしない。
貧しい人々が見捨てられない社会を作るために力を出せとイエスは言ったのだろう。だが受け手は、自分が幸せになるためにはどうすれば良いかと考えてしまう。少し考えれば、弱い人を置き去りにして自分が持続的な幸福状態にいられるわけがないことは自明である。
「1619年プロジェクト(下)」を読んで感じたことは、搾取による(経済的)幸福は善良な人びとにとっても(金持ちの青年と同様に)容易に捨てられないだけでなく、その構造的な搾取を正当化しようとして結託してしまうという現実だ。欧州でも植民地からの搾取構造が解消されたとは言えないし、公正、公平を確立しようとしている人びとも自分の目の中にある梁に気がつくことができないか、気がつくことができても手をつけることができない。
それでも、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」という祈りは個々人によって繰り返し熟考され、貧しい人々が見捨てられることのない社会に向けての動きは絶えたことはない。時に扇動者に惑わされて多くの犠牲者を出した歴史があるとしても、それで終わることはない。ただ、忍耐強く不断の努力を怠れば専制と隷従の時代を長引かせることになる。敵を設定して自分たちの幸福のために戦うというのは「善い行い」とは言えない。
アテンション・エコノミー時代に生きる私たちにとって「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」は救いである。真実の声を上げる人を叩く人がいても、神がその人を捨て置くことはない。そして、生きている人びとは、愛を原点に日々を過ごし、丁寧に進歩に貢献すればよいのだ。「現実には何が本当に良いことなのかを私たちは知ることができない」としても、立ち止まっていてはいけない。扇動者が標的とする個人や集団を叩いて溜飲を下げても幸せな未来が来ることはない。冷静に事実と向かい合う以外の道はないのだ。自己責任の拡大につながる減税を提唱する政党は既に分断の罠に落ちている。確かに貧しさに苦しむ若者が存在するとしても、安易な道を選ぶべきではないだろう。選びたい政党がない場合は、英雄色(独裁臭)の小さいところを選ぶのが得策だと思う。
※画像はMount of Beatitudes, seen from Capernaum、湖畔から山上の垂訓跡地を見上げた風景。