新生活123週目 - 「山上の説教を始める」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第4主日 (2023/1/29 マタイ5章1-12a節)」。並行箇所はルカ伝6:20からだが、山を降りて平地で行った説教。マルコ伝には記事がない。

福音朗読 マタイ5・1-12a

  1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。  
 3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。  
 4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。  
 5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。  
 6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。  
 7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。  
 8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。  
 9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。  
 10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。  
 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

福音のヒント(2)で真福八端という単語が使われている。カトリック教会のカテキズム(オンデマンド版)では「至福への召命」という項で解説されている。そこでは「真福八端は人生の目的、人間行為の究極目的を明らかにします」と書かれている。福音のヒント(1)では「これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます」と書かれている。この箇所は私が小学生、中学生だった頃に印象に残った場所の一つだ。天の国、天国って何?というのは最初に問いたくなるし、自分が天国にふさわしいかどうかは知りたくなるのが自然だ。ただ、「心の貧しい人々は、幸いである」と書かれているが良くわからない。英語訳だと多くの訳でpoor in spiritと書かれている。様々な解釈が提案されていて、Webでたくさんの記事を検索することができる。「なぜ「心の貧しい人々」は幸いか」はその興味深い例の一つ。心の原語はπνεύματιで風、息、精神などを表す名詞。you're at the end of your ropeはどう考えても直訳から遠いけれど、poor in spiritを精神を使い尽くしてしまった状態と解釈することはできないことはないだろう。(元単語は異なるが)心を尽くして主なる神を愛せという教えがあるので、そういう状態もありかも知れない。しかし、やはり良くわからない。カテキズムでも3節には触れていない。福音のヒント(2)では「「柔和な」の句はおそらくイエスの言葉が伝えられていく途中の段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう」と書かれていて、心の貧しい人の意味がわからないから補足追記しているという説を紹介している。逆に言えば、恐らくイエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と言ったのだろう。まあ、天国とは良くわからないものだ。ただ、ここを追求するのを放棄してしまえば、後は救いのメッセージだ。

自分は天国に行けるのか、行けないのかは重大問題で、ここで贖宥状が金に変わったりする。構造的には統一教会問題と変わらない。やはりイエスが最初に言ったであろう「心の貧しい人々は、幸いである」が何を意味するのか追求しないわけには行かないと思う。

 参考になるのは、神学研究で木原 桂二氏が書いた『マタイ5:3の ο? πτωχο? τ? πνε?ματ ι は何を意味しているか?』だ。書き出しの部分で「しかし「霊において貧しい人々」という言葉の意味を捉えるのは決して容易ではない」と書かれている。この論文では「心の」が、マタイの付加の可能性が高いと推定している。それをそのまま取れば貧しい人は幸いだという事になり簡単だ。経済的に豊かでなくても天国に行けるという言明である。なあんだという話になるが、可能性として本当にイエスが「心の」と言ったと仮定した検討が続いている。死海文書にも言及があり、とても興味深い。結語では「その結果「霊において貧しい者たち」は、宗教的に価値なき者と見なされた身体的・精神的絶望に苦しむ人々(=「地の民」)であると捉えられる」と書いている。この解釈は金井美彦氏あるいは砧教会から排斥され絶望に苦しむ今の私にとって福音となる。

 ただ、天国はその人たちのものであったとしても、別に今が幸せになるわけではない。

「イエスによって示された「義」の実践者として歩むように期待されている」という解釈は自然だが、私は、どうにも天国をあの世に結びつける考え方に違和感がある。むしろこの世を天国にするという考え方のほうがしっくりくる。多くの人が真摯にイエスによって示された義を実践しようとすることでいろいろなことが変わりこの世が天国に変わっていくという風に考えたい。そして、未だに戦争があったり、疫病があったりするが、それでも科学技術の発展や、その副作用に関する知見による軌道修正、人権思想の進展など、大きな流れとしては良い方向に進んでいると思っている。自分、あるいは自分たちができるのは、自分だけのことを考えるのではなくそれぞれのもつ力を惜しみなく使って良いことを進める以外には無いのだと思う。

現実には何が本当に良いことなのかを私たちは知ることができない。良いと思うことをやってみて期待と大きく異る結果に至ることは日常茶飯事だ。例えば核技術は多くの人の生活を豊かにしたし、同時に大きなリスクをもたらし多数の犠牲者を生んだのも現実だ。情報技術も両面がある。十分な慎重さは必要だとしても立ち止まっているだけではいけない。自分がやれることをやるしかないのだ。

※画像は、Wikimediaから引用したTissotのBeatitudes