今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の公現 (2026/1/4 マタイ2章1-12節)」。ルカ伝1章に並行箇所がある。3年前の記事がある。カトリックの教会暦としては主の公現は祭日で、翌週が主の洗礼の祝日となる。東方教会等では公現祭は主の洗礼を祝う日の位置づけで東西で意味付けの異なる日となる。3年前は、この箇所が史実であるという想定で記事を書いているが、当時も今も私は史実だとは考えていない。
福音朗読 マタイ2・1-12
1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
福音のヒント(2)で触れられているミカ書5章を引用しておく。ミカ書は英語(日本語)聖書とヘブライ語聖書で章の区切りが異なっていて、以下の5:1はヘブライ語聖書やBSBでは5:2となる。
5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。
改めて読み直すと、イエスの誕生預言としてはうってつけの箇所と言える。史実としては、恐らくイエスはベツレヘム生まれではなくガリラヤの生まれだと思われる。ベツレヘム(Βηθλεέμ (Béthleem))という言葉はルカ伝、ヨハネ伝で使われており、ヨハネ伝ではイエスがメシアか否かの論争の時にメシアはベツレヘムから出るというミカ書の預言をもってイエスの真正性を否定する人がいたことに触れている。メシア待望論は一定の力を持っていたのだろう。マタイ伝、ルカ伝では、物語の内容は異なるが共にイエスをベツレヘム生まれとして、その問題を解決した。
「彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶ」は特に信者にとって魅力的な預言だ。実際に、キリスト教は世界中に広がっていて、客観的に見てもイエスは大いなる者となった。ただ、ミカ書では神が「5:14 また、怒りと憤りをもって/聞き従わない国々に復讐を行う。」と語ったとされており、支配者的、懲罰的神の側面も強調されていて、力関係での「大いなる者」=「強者」のイメージとなる。愛を説いたイエスとのギャップは小さくない。国や組織(教会)は一定の強さがなければ存続できないが、その教えは包摂的というある種の矛盾を抱えている。
また「5:11 わたしはお前の手から呪文を絶ち/魔術師はお前の中から姿を消す。」とも書かれている。占星学者(μάγος (magos))は魔術師(עָנַן (anan) - fortune-tellers)だろう。本日の箇所では、ヘロデが占星学者に諮問したことになっているが、マタイ伝の記者は頼ってはならない者に頼っても結果は得られないと主張したかったのだろうか。
いずれにしても、イエスの生誕物語と金ピカの贈り物の組み合わせはしっくりこない。
福音のヒント(4)で「学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています」と書かれている。そういう解釈も成り立つだろう。また「その力が地の果てに及ぶ」と整合的だ。問題は「その力」が何を意味するかだろう。
「その力が地の果てに及ぶ」は、力による支配が行き渡るという意味ではなく、愛に基づく包摂的な社会が現実となるのだということだろう。ミカは洗礼者ヨハネと同様に恐らくその意味を理解していないが、時代は行きつ戻りつしながら、長期的には良い方向、イエスが指し示した方向に向かって進んでいる。自分が生ある内にあるべき社会が到来するとは思えないが、やがて必ず実現すると信じて良いと思う。
世の終りが来るという脅迫的な教えではなく、個々の自覚が進んで自らの意思で愛の社会の実現は達成可能と説くほうが良いように思う。しばし、反動的な時期を迎えているところではあるが、怯んではいけない。
※画像は1698年のベツレヘムのスケッチとされるものWikimedia Commonsから引用。