新生活269週目 - 「神殿の崩壊を予告する」〜「終末の徴」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第33主日 (2025/11/16 ルカ21章5-19節)」。マタイ伝24章、マルコ伝13章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 ルカ21・5-19

 5〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


福音のヒント(2)、(3)で終末論について述べていて、励ましのメッセージと警告のメッセージと受け取れるとしている。史実としては、70年に神殿は破壊された。6節の訳は読みにくい。TEVでは"All this you see--the time will come when not a single stone here will be left in its place; every one will be thrown down."と訳していて、「貴方がたが見ているもの全て(について)、どの一つ石もそのままの位置に残ることのない時が来る。全ての石は投げ捨てられるであろう」という感じだろうか。ギリシャ語聖書から逐語訳を指向するBSBでは“[As for] what you see here, [the] time will come [when] not one stone will be left on [another]; [every one] will be thrown down.”とあり、left in its placeとleft on anotherが違うが、現在乗っている他の石の上に乗ったままであることはないという意味に取れる。ちなみに、[another]はλίθῳ(λίθος (lithos)、与格)でその前のstone=λίθος(主格)と格は違うが同じ単語である。いずれにしても「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」という訳は適切とは思えない。意味としては、完全に破壊されるということだろう。並行記事であるマルコ伝は神殿崩壊より前に書かれたとする学説が有力なようなので、史実を追って書いたことではなく、事前に記されたものと考えて良いだろう。

当時の第二神殿は紀元前1世紀にヘロデが改修したものだから、ガリラヤから上京した弟子たちが見ていた神殿は見惚れるほど美しい建造物で、神の力を象徴する建物のように見えたはずだ。イエスが、やがて壊されると発言すれば、当然、そんなことはいつ起こるのですかと尋ねたくなる。イエスの答えの中で、興味深いのは9節の終りの部分「世の終わり(τέλος (telos))はすぐには来ないからである」だ。弟子たちは恐らく神殿崩壊と終末を同一視しているがイエスはそうは考えていない。実際、2000年が経過しても世の終わりは到来していない。ちなみに、この単語はマルコ伝では平行箇所で2回、それ以外では3:26でサタンの滅びで使われているだけの単語である。終末色は強く感じられる。ルカ伝では明確に書かれていないがマルコ伝13:32では「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。」と書かれている。

福音のヒント(3)に「「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えても役に立ちません」とあるように、どうなるのかを考えてもそれがいつかを考えてもせんないことだ。だから、次の瞬間に終末の時を迎えるかもしれないという意識で生きなさいと取れば良い。イエスの教えにしたがって、世を良い方向に変える不断の努力をせよという奨めでもある。

そうすると「世の終わり」ではなく、「私の役割」あるいは使命を意識することになる。一人ひとりに与えられていることは異なるが、為すべきことを為すしかない。もちろん、疲れて立ち止まってしまうこともあるだろう。それは仕方のないことだ。疲れてしまえば力を出せなくなるのだから、回復を待てば良い。しかし、自分の役割は終わったと考えるのは適切ではないだろう。これまでやってきたことが、今為すべきことでなくなることはある。歳を重ねると同じ役割を果たすことはできなくなったりする。競争視点での高付加価値の訴求が現実的でなくなることもある。もともと高付加価値自身が善であるわけでもなく、その時、その場で与えられる役割があるのだろう。ルカ伝19節で忍耐を求めている。善いことをあきらめてはいけないという教えと取れば良いだろう。

※画像は、Wikipedia経由で引用した第二神殿の模型。