イエスという男 第二版[増補改訂版]読了。田川 建三氏の訃報を目にして読む決断をしたもの。最近手にとった本の中で最も面白いと思えた本だ。キリスト教、あるいは教会視点を外してイエスという人物に迫った書籍である。
荒井献氏(以前イエスとその時代について書いている)ほかと対立関係にあった人で、この書籍内でもかなり辛辣なコメントを記している。指摘内容自身は一定の合理性が感じられるが、田川氏と距離を取る人は多かっただろうと思う。昭和10年生まれだから、私の親と同世代の人だ。父は、どこかで接していたかも知れない。
「神を信じないクリスチャン」という考え方も興味深い。
第一章 逆説的反抗者の生と死の最初で、「イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。」と書いている。歴史の先駆者として生き、殺されて、教会によって神にされたという考え方に立っていたように読める。教会的には復活信仰が不可避なので、それを認めなければ受洗できず、その信仰告白なしにクリスチャンになることはできない。つまり、「神を信じないクリスチャン」は教会的にはありえない。
しかし、歴史的な事実は存在し、歴史は捏造される。そして、事実を探り切ることはできないので、仮説を立ててもっともらしさを競うしか無い。イエスの事実には、様々な仮説(学術的見解)が出されているが、教会の権威があるので教会に不都合な仮説はなかなか出てこない。それでも、現代では批判的な研究が許容されるようになっている。荒井献氏はすごく牧師らしい人物で、かつ学者である。『イエスとその時代』のあとがきには「本書において私が試みたのは、イエスとその時代に対する歴史的接近である。」と書かれている。田川氏は一言で言えばちゃんちゃらおかしいと批判している。教会的なバイアスがかかりまくっていて、学者として発表できるような内容ではないと糾弾している。田川氏は研究者視点は徹底していてイエスを実在した人間という前提で分析している。もちろん、それも解釈なのだが、十分な納得感がある。
一方で、クリスチャンを救済するために死に、そして復活したという前提は置かないことになるので、イエスの死は悲惨でしか無い。歴史の先駆者であったことが死後に認められ、教会によって美化されて神になったというのが話の筋となる。仮説としては十分納得感がある。一方で、その先駆性(未来の形の先取り)を現実に変えていくには政治力が必要になる。いくらイエスがすごくても、支持者が集団を形成しないと現実を変えることはできない。
例えば、P147で「支配するもののいない世界(中略)、これは常に実現しない理想であった」と書かれている。常識として支配被支配の構造を容認していて逆転はあっても、支配被支配関係を必要としない世界が理想だという思想は先駆性の一つと考えて良いだろう。またP174では「その頃までにユダヤ教はすでに、律法学者による会堂を中心とする宗教的社会支配の体系として十分にととのえられていた。」とある。キリスト教会による社会支配もその類型と考えて良いだろう。2000年を経過してもイエスの教えは実現していないが、同時に輝きは失われていない。イエスの教えに従えば、教会の権威はあってはいけないものだという結論に至る。
「神を信じないクリスチャン」は権威に依存することなくイエスの思想に共感するものと解釈できる。
もちろん、現実は厳しく、自発的な良心すら一致に至らない。
結局は自分で考えるしか無いのだが、権威を疑う姿勢は望ましいものだと思う。信仰の問題と事実に向き合おうとする姿勢は、一見両立しなさそうに感じられるがそんなことはない。クリスチャンにとって、一読の価値のある書籍だと思う。逆に道を見つけたい人にとっては、注目すべきは事実より思想が重要になり、この本からイエスを知ろうというのは無理がある。まず聖書から入るのが良いだろう。