今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日(2025/8/24 ルカ13章22-30節)」。biblehubによれば、マタイ伝7章に並行箇所がある。3年前の記事がある。
福音朗読 ルカ13・22-30
22〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
第二朗読 ヘブライ12・5-7、11-13
5〔皆さん、あなたがたは、〕また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
6なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
25節の「外に立って戸をたたき」は、黙示録3:20を想起させるが、直接リファレンスにはない。ただ、「戸をたたき」という単語はκρούωで黙示録の箇所でも用いられている単語である。新約聖書では9回しか出てこない。マタイ伝7章の「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」などで、一番頻出するのはルカ伝の4回で、使徒行伝で2回、黙示録で1回、マルコ伝やヨハネ伝では利用されていない単語である。
もちろん、立場は真逆で、黙示録ではイエスが外に立って戸を叩いているシーンである。人が悔やんで外から戸を叩いても入れてもらえないが、実はイエスが外に立って戸を叩いているのに気がつくことができれば、救われるということだ。私は、この外に立っていた機を逸した愚か者にも、別のタイミングでイエスは来ると考えている。
大乗的な考え方が正しいかどうかはわからないが、私は局面局面で厳しく評価されるシーンはあっても、イエスはあきらめないと思っているのだ。単に自分が救われたいだけかもしれないが、自分の罪深さを考えると、もっと先にたくさんの人が救いに入れなければ、自分の順番は回ってこないと考えている。
私は30節の「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」でパウロを想起する。彼は生前のイエスの弟子ではなかったし、反抗者であったが、ある意味でペトロを飛び越して救われたようにも感じられる。しかし、順序は関係ない。
私は「自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。」としても、最後にはすべての人が救いにあずかれるのではないかと考えている。きっと、誰もが「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」に気がつけることと信じたい。私は、この箇所を起点に信仰に入ったが、ずっとその喜びにとどまっていたとは言えない。金井美彦は、明らか自己保身目的で、私に砧教会ではあなたには何の権利もないと言い切ったのである。それは今年一度礼拝出席したタイミングでも全く変化していなかった。それだけではなく、忙しさに甘えて足が遠のいたこともある。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。」に異論はないが、砧教会を「聖なる公同の教会」として通う先には思えていない。金井美彦と、佐分利正彦がいる砧教会の礼拝に出るのはつらすぎるのだ。悔い改めて正しい道に進むことができることを祈っている。
第二朗読は鍛錬に関する記事で、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」とある。この5年で得られたことも少なくない。これも鍛錬なのだろう。これからも、安易な妥協はせず、母教会が守られることを祈り続けようと思う。
いろいろと思い煩うことはあるが、それでも必ず御国に受け入れてもらえると信じて生きて行きたい。
※画像はWikimedia Commonsから引用させていただいたJan Micker: Narrow road of virtue and wide road of sin (Matthew 7:13-14) 。狭き門のイメージとしては一般的だが、実は広き門から入っても、そこここに狭き門が存在していて、途中から入れるケースはあるのではないかと思っている。意外と苦しい道ではないのかも知れない。苦しく感じさせるのは教会(聖職者)の自己保身に起因するかも知れないと思うのである。