新生活232週目 - 「人を裁くな~実によって木を知る」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第8主日 (2025/3/2 ルカ6章39-45節)」。3年前の記事がある。例えばマタイ伝15章の昔の人の言い伝えに39節と類似の節があるが、続く部分は必ずしも一致しない。ファリサイ派や律法学者の批判色が強く43節以降と通じる感じはする。比較して読んでいると、福音のヒント(1)に書かれているように「この箇所のイエスの教えは、短い言葉がつなぎ合わされているようです」に納得感が得られる。

福音朗読 ルカ6・39-45

 39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」


 3年前の記事で書いたことは今でも同じように考えている。「自分の口からでる言葉が人を不幸にするのであれば、自分の心の中に不幸の元があるれていてそこから出てきているということになる。なかなか辛い現実である。」と書いていたが、今も変わらない。この点は、他人と比較しても意味はなく、誰々よりマシだと考えてしまえば、「自分の目の中の丸太」が「おが屑」より小さいと考えていることにほかならない。他人の指摘に過剰に反応して自己防衛に走っても未来がひらけることはない。

謙虚に良く考えて行動するしかないのだろう。

3年前の記事には、ウクライナ侵攻への言及がある。2月24日の事件なので直後だったことがわかる。

10万人以上の命が失われ、ラトビアは地雷の埋設に向かいつつある。ロシアの人々がみな戦争と征服を願っているとはとても思えないのに、なぜか平和は来ない。事実と異なる発言をする政治勢力が各国で跋扈するようになり、事実に基づいて慎重に行動しようとする政治勢力を超法規的に攻撃している。どう考えても、その向こうに平和はない。

ムハンマドは武力も用いて、イスラムの教えを広げた。最近になって、西洋で言うルネッサンス的な動きも進んでいるようだが、法治を達成するには強制力が必要というのが現実だろう。捨象して言えば、イエスはやがて滅ぶから放っておけと言いつつ、福音を受け取って悔い改めることができるとも説いた。キリスト教はある意味でローマ帝国に寄生して影響力を大きくし、それが今でも続いている。イスラム教はオスマン帝国と一体化し、神聖ローマ帝国の独占化を妨げた。法体系の統一化が行われることもなく、繰り返し独裁者による法の無効化が行われた。今再び、事実と冷静に向かい合うことなく好き嫌い、損得で自己中心的に振る舞うことが処世術になる時代を迎えつつある。国連は、大国の思惑に反することを多数決で採択し続けているが、強制力がないので決議に実効性がない。

どの時代も市井の人々はほとんど力を持たない。時折、スポットライトが当たる人が出てきて、群れを作ることで影響力を行使することはあるが、そういうスターの多くは権力を握ると腐ってしまう。当初から権力闘争だった動きもあるだろう。そういう意味で、イエスの磔の死と復活の信仰は(信者にとっては)一線を画する輝きがある。

改めて、この箇所を読み直すと「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」こそが私に向けられた言葉であり、あなたに向けられた言葉であることが染み出してくる。どうやって自分の目から丸太を取り除けるのだろうか。

ナイーブな考え方に立てば、信仰告白にあるように「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠よるべき唯一の正典なり。」に単純に従うことになるが、真剣に読めば聖書など矛盾だらけだ。年号だって科学的検証に従えばキリストの誕生が起点になっているわけではない。それでも、マルコ伝12章の「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」を念頭において聖書を読むことには意味があるだろう。国家は権力で、政権に従うことが「あなたの神である主を愛しなさい」と一致するとは言えない。国家の法執行が正解とは言えない。ましてや、事実に基づかない言説を発する独裁者に従うことは「あなたの神である主を愛しなさい」とはとても言えない。加えて言えば、教会や教団という権力機構に絶対の信頼をおいてはならない。

権力の犠牲者を生み出さない世界をどう作り上げていくかに向けての祈りが「御国を来たらせ給え」という祈りととっても良いだろう。人を裁けば犠牲者が出る。現実には話してもわからない隣人、暴力的な隣人が存在するが、それでも全力を尽くして平和への道を模索しなければいけないということだ。

具体的には、真実を丁寧に追求して、事実に基づかない扇動を行う行為を止めるために力を尽くすしかない。誠実な報道を支援し、不実な扇動を糾弾し続けるのが適切だろう。

砧教会の金井美彦の「あなたには砧教会において一切の権利はない」というような排除発言は、人を裁いた典型例だろう。主イエスがその場にいたら、どう反応するだろうか。残念ながら、役員の多くが金井美彦の虚偽発言をかばって事実に向かい合うのを放棄してしまった。私がいなくなれば、耳に痛いが否定できないメッセージを聞かなくて済むが、事実に向かい合うことを放棄したという罪は残る。きちんと向き合わなければ腐敗は進み、やがて滅ぶだろう。悔い改めて正しい道を進んでいただきたいと願っている。組織は上層部から腐るものだ。油断してはいけない。民衆は、虚偽発言をする者に権力を与えないように注意すべきだ。

ゼレンスキー氏は、厳しい状況の中、2025年2月末に筋の通らないトランプとのディールを拒否した。その決断で失われる命もあるだろう。現実的には権力闘争は避けられないが、侵略者や弾圧者のいいなりになるような社会を望まない人は多い。しかし、切り取りや虚偽情報で扇動されて、対立構造に引き入れられてしまう。事実より、誰の発言かが優先されるようになってしまえば、やがて独裁、専制と隷従が待っている。ゼレンスキー氏の判断で失われた命も、プーチン氏の判断で失われた命も、バイデン氏、トランプ氏の判断で失われた命もある。権力はその命に責任があることを忘れてはいけない。ファリサイ派や律法学者にイエスや洗礼者ヨハネが批判的だったのは、権力に伴う責任に無自覚ではいけないという点にある。役割は違っても、権力を持つものも赤子も病人も同じ人間で、自分を誰かと違う特別な存在と考えたり、より大きな権力にへつらってはいけないということだ。恒久的な平和を実現していく道が見つかることを期待したい。つい、プーチンを敵とみなしてしまうが、敵を制裁することで解決できるとしてもその有効期間は短い。何とかして良いシステムを機能させるようにすることが本質的だ。言い換えれば、権力を担うものが怒りではなく愛に基づいて使命を果たすことがイエスによって求められているということにほかならない。

誰もが、それぞれに責任を負っている。短期的な成果が期待できるとしても、不義を喜んではいけない。トランプが大統領になる時代、デマとの戦いに力を尽くすべき時期なのだろう。私には、ゼレンスキー氏が謙虚で誠実に見える。それでも彼は多くの失われた命に対する責任は負わなければいけない。その点でも彼は自覚的に見える。失われた命と今後の命に対して誠実であろうとする姿勢と、自分たちが良ければそれでよいというMAGA思想は比較するまでもない。欧州の多くの為政者が支持を表明していることを私は好感している。専制と隷従の世界に陥らないようにできる限り力を尽くすべきだと思う。

※画像はWikipedia経由で得られるウクライナ国旗