新生活75週目 - 「人を裁くな~実によって木を知る」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第8主日 (2022/2/27 ルカ6章39-45節)」。先週の直後の箇所で、新共同訳の見出しとずれたところで切られている。新共同訳の39節の出だしは「イエスはまた、たとえを話された。」である。2022年2月24日はロシアがウクライナに戦争をしかけた日となった。プーチンはロシアの救世主だろうか、あるいは天下の大悪人かと考えてしまうが、イエスは人を裁くなと説く。

福音朗読 ルカ6・39-45

 39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

この箇所も中学生の頃の記憶を呼び起こさせる。今でもそうだが、私はしばしば「兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』」と言ってしまう子どもだった。それは、私がいじめを受ける理由の一つだったと思う。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」という言葉は重い。自分の口からでる言葉が人を不幸にするのであれば、自分の心の中に不幸の元があるれていてそこから出てきているということになる。なかなか辛い現実である。

福音のヒント(1)では、イエスは弟子にあなたがたは盲目の状態であってはならないと諭したという解釈を与えている。盲目でないことというのは非常に難しい。自分ひとりの目で見える世界は狭いからだ。高校に進学してしまえば、高校に進学しなかった人の視点を持てないし、億万長者の人から見えている世界がどのようなものかも分からない。誰一人として、自分には全て見えていると言うことはできない。できるのは、誠意をもって事実を見つめて判断し、謙虚さと尊敬の念を失わずに誰かに向かって発言したり事を成したりすることだけだろう。罪を犯すことを怖れて一歩も動かないことが良いことだとはとても思えない。

これは福音のヒント(3)の『「人を裁く」という心のあり方こそが、もっとも大きな罪だ』という解釈と通じるところがあるのだが、私は「人を裁く」と「事を裁く」の違いに悩む。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出すというのはどうにも納得がいかない。これは、人には善い人と悪い人がいるということになっていて、悪い人は救われない。偽善者は一見善い人に見える悪い人ということになるが、人間は誰しも善いことも悪いことも行う。善いことを行おうと思っていてもできないこともある。悪いことを行っているのに自分でそれが悪いことであることに気がつけないこともある。良かれと思ってやったことが裏目に出た経験がない人もいないだろう。だから、人には善い人と悪い人がいるという二元論的な考え方にはとても賛同できない。

では、聖書になぜこういうことが記されているのか、そう書かれることになったイエスの行動は何だったのだろうか。

イエスは時の権力者に忖度しない。腐敗した権力者のことを善人と思う人はいないだろう。善良な権力者はその環境が整っているから善行ができているだけかも知れない。環境が変われば行動も変わる。自分に与えられている環境以外の環境に自分が置かれた時の行動を予測するのは困難だ。すべからく盲人が盲人の道案内をし、兄弟の目にあるおが屑は見えても、自分の目の中の丸太には気づくことができない。つまり善人など存在し得ない。自分が善人でないことを自覚して、行動しなさいと言ったのだろうと思う。43節以降は、自分の行為が生んだ結果から、自分を見なさいと言ったのではないだろうか。

他人を善人と悪人に分類することは裁くことそのものだから、イエスが裁きの基準を語ったと考えることはできない。他人を裁く自分の目(価値基準)を自分に向けよと言った言葉がこのように記録されたと私は考えたい。

一方で、弟子には福音を述べ伝えよと命令しているわけだから、立ち止まって何もするなと説いているわけではない。正しいことをしなければいけないとしか思えない人は、正しいと思うことをするしかない。まあ良いんじゃないかと思う人は、そのように生きれば良いのだろう。人はそれぞれ違い、同じ人間でも環境が変われば行動も変わる。行為に与える判断に差があれば衝突も避けられない。衝突から逃げてばかりいることもできない。愛を持って自分の価値基準に向き合った上で、行動せよと読めばよいのだろう。

今回のロシアによるウクライナ侵攻でプーチンを人として裁いてはいけない。しかし、その行為は正されなければいけないと思う。

われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

私は、この憲法前文の言葉は、イエスの教えに整合していると思う。敵と味方に二分するのではなく、全世界の(国)民の権利が等しく保証される未来を願う。力による現状変更という表現がよく使われるが、力によらない現状変更をもっともっと進めたら良いだろう。変化を恐れてはいけない。

※画像は、Wikimediaから引用させていただいたウクライナ西側に現存する古い教会