新生活230週目 - 「幸いと不幸」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第5主日 (2025/2/9 ルカ5章1-11節)」。3年前の記事がある。マタイ伝5章に並行記事がある。マルコ伝にないことも注目すべきだろう。

福音朗読 ルカ6・17、20-26

 17〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕
 20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 21今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。
 22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


3年前の記事でも、福音のヒント(3)でも触れられている20節の神の国の原語βασιλεία (basileia)という言葉はStrong'sコンコルダンスでは163個所で使われているとあり、大半は福音書だが、パウロ書簡でも何度も用いられている。恐らく最も頻出する名詞は神θεός (theos)で1327回。「神の国はあなたがたのものである」(マタイ伝では「天の国はその人たちのものである」)というのはどういうことだろうか。

いくつかの解釈があるようだが、貧しい人々は政府から見捨てられている人々という意味で、言い換えればこの世の国による保護が及んでいない人々のことを指し、それに対してイエスが神の国はそれらの人々をきちんと国民として扱うと宣言しているとする考え方に私は共感する。

英語ではthe kingdom of God(Heaven)と訳されているが、王国と言う意味も治世の範囲内という意味もある。現実には、全ての人の苦しみを解消することはできない。現実は厳しくても、神は必ず見ているというメッセージは救いになる。治癒奇跡と合わされば、信頼度は上がる。

一方で、この世での救いの業を行う力を有していて、それを実行していない人々のことも神は見ているというのが、後半の不幸の話と読むことができる。

主の祈りには「御国〔みくに〕を来たらせたまえ。」という節がある。カトリックでは「み国が来ますように。」。当然、この御国はthe kingdom of God(Heaven)だろう。私は、神への求めと取るよりは、この世を神の国に近づけていくという意思の宣誓と取っている。一人ひとりの力はほとんどないが、誰もがその意思を持てばきっとこの世が神の国に近づく、今不幸を感じる人の不幸が減っていく方向に動くだろうと考えている。

神の国のこの世での形は独立国のことを示すだろうか。ユダヤ教の神の国はイスラエルという領土を指すのだろうか。パレスチナ人を追い出して、王道楽土を築くのが御心だろうか。OECDで最悪の相対的貧困率の理想郷などあり得ない。外部の干渉を受けることなく自由に生きていける国土を得ることは望ましいことのように見えるが、力で現状変更を行うような排斥的な国家に持続性はない。では、神の国は教会を基礎とするものだろうか。教会には会員制がつきもので、排他的な面がでるリスクに常にさらされている。それでも、国家も教会も努力することはできる。

「22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」はとても興味深い。人の子のためというのは真理追求のためと言い換えても良いだろう。あるいは神の義のためでも良い。神の義とナショナリズムと取り違えてしまうと追い出す側、迫害者になってしまう。福音とは真逆の存在だ。

つかえられる者ではなく、つかえるものになりなさいという教えにつながる説教と考えて良いだろう。誰かにつかえるわけではなく、苦しんでいるものに寄り添える人であり、制度設計や法執行にタレントがあるなら、権力者のためではなく人権が最大化するために力を出せば良い。今苦しんでいる人には寄り添える人が寄り添えるようになり、長い目で見れば、苦しんでいる人がどんどん減っていくような社会設計ができれば良い。この世でゴールに辿り着くことはできないが、神の国に近づくためにそれぞれにできることがある。破壊的独裁者や扇動者の行為を止める努力を惜しむべきではない。

ごく日常的な話にマップすれば、いじめに加担してはいけないということだ。

※画像はWikipediaのBeatitudesで引用されていたThis folio from Walters manuscript W.171 depicts the eight Beatitudes.