新生活73週目 - 「幸いと不幸」

hagi2022/02/13(日) - 09:09 に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第6主日 (2022/2/13 ルカ6・17, 20-26)」。

福音朗読 ルカ6・17、20-26

 17〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕
 20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 21今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。
 22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

私はこの箇所は並行するマタイ伝の山上の垂訓の印象が強くて、改めて読み比べて見た。中学生の時に読んだ文語訳では「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」から始まる。この心の貧しき者って何だ?と疑問を持ったが、「幸福なるかな、」は8回出てきて、まあ全体としてこんなものと考えれば良いのかなあと疑問をスルーしてきた。ルカ伝では、4回しか幸福はでてこなくて、禍害が4回出てくる。

 

  マタイ ルカ
1 心の貧しき者 貧しき者
2 悲しむ者 いま飢うる者
3 柔和なる者 いま泣く者
4 義に飢ゑ渇く者 惡しとして棄てなば
5 憐憫ある者 - 富む者
6 心の清き者 - いま飽く者
7 平和ならしむる者 - いま笑ふ者
8 義のために責められたる者 - なんぢらを譽めなば

 

改めて読むと意外とマッチしていない。マルコ伝には並行箇所がない。このインパクトのある教えがマルコ伝に収録されていないのは不思議に感じられる。福音のヒント(1)の「イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです」に説得力があり、福音書の著者が編集して作成したものと考えるのが自然な気がする。また、福音のヒント(2)では「単純なルカの形のほうが元の形に近いだろう」と書かれているが、そもそも編集の成果であれば、教会の都合で形を作ったということになるだろう。

貧しき者はもちろん、悲しむ者あるいはいま泣く者は幸いであるという主張は衝撃的だ。どう考えても変である。葬式で泣く人は幸福なのだろうか。人は、何とか悲しむ人を減らすことはできないかと努力してきたのだと思う。その一つの道は勝者を目指す道だ。強者になって支配者になれば、自分は悲しまなくてすむという考え方で、愛国主義的な思考となる。家族愛も外からの攻撃に対抗するシーンもあれば、家族内の支配の源泉となることもある。

福音のヒント(3)のように「神は決してあなたがたを見捨ててはいない」から幸いだという解釈もあるだろう。しかし、私は明けない夜はないというメッセージと取っている。悲しみを感じているとうことは、何かに気がついているということだ。イエスの説く神の国を目指すということは、力の世界を超えて愛の世界を目指すということになる。

そう考えると、例は自由に選んで良いことになる気がする。愛の視点で測って善行を行え、そうすれば神の国が近づいてあなた自身も幸せになると読んでも良いのではないだろうか。

神の国(βασιλεία τοῦ Θεοῦ)という言葉がすごく気になる。国という言葉には、どうしても内側と外側を隔てる意味を持ち、自然に考えると神の国が最強の国で、それ以外の国はその神の国の支配下に置かれることになる。しかし、それは強者が支配する世界を意味し、イエスの教えと整合しないように感じるのだ。

国は制度でもある。最近特に中露と西側諸国の対立が問題となっているが、中国の指導部は、かなり本気で貧困の撲滅に取り組んでいるように見えるし、できる範囲で感染症で倒れる人をゼロにしようとしているように見える。それ自身は良いことだと思う。別の見方をすると、力で善行を推し進めようとしているわけで、価値観を直線化し個人の自由を奪っているという側面がある。生きていけたとしても、自由がなければ悲しみは消えることはない。やはり力に頼る統治には持続性は無いだろう。リスクをおかしてもやりたいことは誰にでもあるし、人の価値観は千差万別だ。

では神の国とは何か。愛が機能している場であれば、悲しむ者が捨て置かれない世界を意味するだろう。もちろん、貧困も疾病の被害者も捨て置かれない世界に違いない。貧困は解消されるべきだが、格差が全く無い社会など存在し得るとはとても思えない。夢の国は存在しないが、愛を起点に置く神の国への変化の方向は指し示すことはできる。それぞれの人の歩く道は違うが、道は神の国につながっているというのが福音なのだろう。

「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」は示唆に富む。「誰も私の言うことに異を唱えない」と思ったり言ってしまったら、それは正に滅びの道を進んでいるということだろう。その思いが弾圧となり悲しみを生み出すからだ。扇動者には注意を払ってついていかないようにした方が良い。そして、扇動者が扇動者でなくなれるようになればそれで良いのだから、扇動行為はさばいても人としてさばく必要はない。神の国とは、そういう世界を示していると思う。戦争の噂を聞いてもなお私はこの世は神の国に近づいていると思うが油断はできない。力に頼る誘惑に負けない判断を福音として伝えたい。

※画像は山上の垂訓を記念する教会Wikimediaから引用