新生活228週目 - 「神殿で献げられる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の奉献 (2025/2/2 ルカ2章22-40節)」。並行箇所はない。英語版聖書では、訳によって、見出しの区切りに食い違いが見られる。25節、36節で分ける考え方もあり、21節から続くとする考え方もあるようだ。同一箇所は、2023年末に取り上げている。

福音朗読 ルカ2・22-40

 22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
  この僕を安らかに去らせてくださいます。
 30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 31これは万民のために整えてくださった救いで、
 32異邦人を照らす啓示の光、
  あなたの民イスラエルの誉れです。」
 33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
 39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。


清めの期間は出産から40日。ベツレヘムで出産したとして、どこで生活していたのだろうか。ルカ伝の著者はパレスチナに住んでいなかったという説があり、土地勘が感じられないところはある。どうも、ガリラヤとエルサレムあるいはベツレヘムの位置関係がしっくりこない。イエスの誕生時の物語は、マルコ伝には存在せず、マタイ伝ではヘロデを恐れてエジプトに逃れる話になっているので、神殿訪問の可能性は低い。

ルカ伝は、ユダヤ人以外の読者が想定されているので、23節、24節は補足説明と捉えることができる。出エジプト記13:2には「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」とあり、レビ記12章には以下のように書かれている。


1 主はモーセに仰せになった。
2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。 4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
5 女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。
6 男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。 7 祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。 8 なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。


レビ記を読む限り、清めの儀式はマリアに対するものと読める。マタイ伝のような脱出物語よりは、ルカ伝のような常識的な対応のほうが想像しやすい。それにシメオンとアンナの伝承を加えることで、生まれつきの真正性を示唆しているように思う。史実があったかどうかはわからない。

Wikipedia英語版のGospel of LukeはChristologyの節で2:22に触れている。ルカ伝では、イエスは生まれた時から神だったと書かれているのに対して、同一著者と想定されている使徒行伝では、2章のペトロの説教の部分で「36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と書いていて、復活時にメシアとなった、再臨の時にメシア性が発揮されると考え方に違いがあるという言及がある。聖書の文書も人が書いたものなので教義解釈等は食い違いが出る。好意的に読めば、本日の箇所はイエスが運命づけられた人であることを聖霊が共にある人が証言したというだけで、すでに完成しているとは言っていないと捉えることはできると思う。

福音のヒント(2)で触れられているが、贖罪の捧げ物が小羊でないのは、単に旅の途中だったからと考えても良いだろう。ガリラヤとエルサレムを定期的に往復していたと思われるヨセフがそれほど貧乏だったとは思えない。イエスが生まれた頃に実際のレビ記の規定がどの程度忠実に守られていたかはわからない。

この箇所は、これから始まるイエス伝の導入部として、こんなこともあったと伝えられているという記事として読んでおけばよいのだろうと思っている。

Wikipediaのルカ伝に関する分析を読んで改めて今日の第二朗読を読むと史実委細より解釈に対する共感に意味があるように感じられてくる。

第二朗読 ヘブライ2・14-18

 14〔人は〕血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。16確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。


死は、終わりではない。この世の権力の奴隷の状態からの開放≒全ての人の自由人化がビジョンとなり、人間イエスがロールモデルとなる。ただし、人間イエスという個の存在はそれ以外の誰とも違う個であり、誰も同じように生きることはできない。ただ、専制と隷従からの開放というビジョンは共有可能なものだ。そのためには、愛が不可欠であることも明らかだ。愛が足りなければ救いに漏れて開放されない人が残る。一方、生きている間に煩悩から開放されることはない。個人的な欲望の奴隷であり続ける。それでも、死が終わりではないと信じた時に、未完成であってもビジョンを共有して生きることは可能になる。その道を歩き始めれば、少しずつ清められていく、あるいは自分を清めていくことができるのだろう。

膨大な研究、真理の追求の蓄積の上に、現代社会は成り立っている。試練に負けて、時に慢心して停滞したり道を外したりするようなことはあっても、長い目で見れば専制と隷従に陥らない方向に進化していくことはできるだろう。 

※冒頭の画像は
Manuth, Volker. “Simeon in the Temple” (2017). . In The Leiden Collection Catalogue, 4th ed. Edited by Arthur K. Wheelock Jr. and Elizabeth Nogrady with Caroline Van Cauwenberge. New York, 2023–. https://theleidencollection.com/artwork/simeon-in-the-temple/ (accessed January 31, 2025).