ウクライナ全史を読み終わった。下巻は上巻より読みやすい。1914年6月の記事から始まることもある。スキタイ人、ハン国、コサック、タタール人の話はあまりに遠くてピンとこなかったが、ロシアとドイツの話だと、イメージがしやすい。そして、ユダヤ人が関わっていることで、立体的にイメージが湧いてくる。恥ずかしながら、ゼレンスキー大統領がユダヤ人だったことも知らなかった。監訳者の鶴見太郎(東大)氏は、ロシア・ユダヤ史の准教授。監訳者解説が面白かったこともある。
独裁者あるいは独裁を志向する(安倍のような)者は歴史改竄を行うことが分かる(幸い、安倍は怯んで日本は救われたが精算には長い時間がかかるだろう)。一方で、民主的な独立を志向する時にはナショナリズムがエネルギーを生み出す。その原点にはしばしば言語が関わっている。ウクライナとウクライナ語、エストニアとエストニア語、アイデンティティと結びつく。しかし、必ずしも言語だけがアイデンティティの源とは限らない。ロシア語話者の中にも自分はウクライナ人と考える人も現れるし、専制と隷従に耐え難いと考える人はいる。
社会主義と言いながら、結局は富の集中がインセンティブを生み、どう搾取するかに知恵を絞るようになったのは歴史を振り返ればよく分かる。今も、その傾向は変わらない。オリガルヒは改革の旗手でもあったが、勝ち残った者の多くは権力と癒着して富を得ようとした者だった。インフラ整備にも食料・エネルギー確保にも元手はいるから、現実との折り合いをつけなければいけない。ソ連のような大掛かりな搾取システムが確立すると、一回の改革、制度的リセットでは足りない。ウクライナは3回目、4回目のチャレンジを行っているが、まだ精算できていない。人口や国土面積が大きければ、困難も大きいということだろう。
キーワードは透明性にあることは、間違いないだろう。ウクライナで世界で最も透明な電子公共調達システムを機能させたと書かれている。知恵を出す人は市井にいるのだ。良いことが必ず(すぐに)できるわけではないが、行きつ戻りつがあったとしても必ず自由が拡大されていくだろう。右派は、そういうアプローチは効率が悪いと言って巧妙に専制に誘導しようとする。今は、そちら側に振り子が振れている時期だから、ゼレンスキーも合わせる以外の道はないだろう。しかし、自由に向かっている国、あるいは国民は、一時の妥協はあってもその世代の間に本質を譲ることはないだろう。
私は、為政者から見た歴史ではなく、民から見た多様性のある歴史記述の厚みが将来を決めるのではないかと思った。油断大敵である。