今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第14主日 (2024/7/7 マルコ6章1-6節)」。3年前の記事がある。マタイ伝13章とルカ伝4章に並行箇所がある。英語版WikipediaのRejection of Jesusの冒頭で、比較考察がある。それを読んだ上で3つの平行箇所を読むと、執筆者、編集者の意図が垣間見えるような気がする。
福音朗読 マルコ6・1-6
1〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
ぱっと想像したのは「刮目して相まみえるべし」という言葉だった。この箇所をそのまま読めば、故郷では背景情報がバレていて、あの家の子として先入観をもって接した結果、聞き手はそのメッセージを受け取ることはできなかった。受け入れ準備ができていないところでは奇跡は起きないというように読める。
いやちょっと待て。背景情報が割れていなかったり、疑り深い人の上にも時に奇跡は起きる。よく考えると、なぜ「奇跡を行うことがおできにならなかった」のだろうか。何か、興行感があって嫌な感じがする。現代では、バチカンの聖職者が奇跡を行うことができるとは考えられていない。もちろん、プロテスタントで教師になれば奇跡ができると考える人はいないだろう。逆に、奇跡を起こす権威が与えられるようなことがあったら、その人は耐えられるだろうか。
イエスは荒野の誘惑で奇跡を自分のために起こす誘惑に負けなかった。人間イエスは生涯一度も自分のために力を使ったことはなかっただろうか。枯れたいちじくの話などは、気まぐれに起こした奇跡のように見える。その奇跡に意味を与えるのも自由だと思うが、人間の身体を持って生きていた以上完璧ではいられなかったのではないかと思う。体調不良の時もあっただろう。
公生涯でスーパースター化が進んだ段階で舌禍事件も起こしたように見えるが、どんな人にも生きる権利があり、幸せを追求する権利があると説く部分は生涯変わらなかったように思う。自分の保身に走ることなく、十字架の道を受け入れたところはとても単なる人間とは思えないすごさがある(もちろん、私はイエスを単なる一人の人間とは見ていないが、人間として生きていた時は生身の人間でもあったと考えている)。
先入観は、先入観をもって接する人にとっても、先入観をもって接される人にとっても面倒なものだ。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」は結構マイルドな書き方のように思う。イエスにも子供時代はあったわけだから、悪ガキ性がゼロだったとは思わない。その辺りにいる子どもとさして変わらなかった人がどうしてこんな人になったのだろうといぶかるのは変な感じはしない。このようなことをどこから得たのだろうという疑問には、ヨハネ教団に参加して受洗時に聖霊が降って変貌したしたというのが聖書を読んだ後世の人が導き出す答えだ。処女降誕を含めもっと前に聖別されていたという伝承を信じるとすると、故郷のナザレでも彼は子供の頃から特別な存在だったと認識されていて、「この人は、…」の問は生まれなかっただろう。もちろん、見ても気がつけない人はいるから、気がついていた人もいたかも知れない。
心が開いた状態になって、自らが自らの進む道を見つけられるようになれば良いと思うのだが、先入観はその大きな障害となる可能性があるということだろう。奇跡は伝道視点からは本質的ではない。
先入観を越えて、見るべきものが見えるようになるように祈るしかない。新約聖書は伝道文書だから、盛られている部分があるのは否定できない。あからさまに改変されているヨハネ伝を除けば福音書は史実から逸脱することのないように注意して書かれていると思うが、何年も経てから文書化されたものだし、証言者の記憶だって食い違うだろう。この箇所は、うまくいかなかった歴史の1ページであり、それが記録されているのは興味深いことだ。人間イエスの落胆感が漂う。しかし、その時うまくいかなかったとしても、言葉はナザレの人々の心に留まって、後に力を発したケースはあっただろう。
※画像は、Wikimedia Commonsから引用した現在(2007年)のナザレ。イエスの故郷というラベルは多くの来訪者を生む。逆の先入観も生む。目に見える物事だけに頼ってはいけないが、それでもこの目で見てみたいという気持ちは抑えがたい。自分の見る力が不完全であることを承知していても、自分の目で見る経験は大きい。望めば、どこにでも行けて、どこに行ってもリスクが高くないような未来に向けて歩みを止めてはいけないと思う。選民思考は最悪の先入観だ。どの宗教も常にその誘惑にさらされていて、いつの世にもその脆弱性につけ込む者はいなくならない。