新生活195週目 - 「成長する種」のたとえ~「からし種」のたとえ

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第11主日 (2024/6/16 マルコ4章26-34節)」。3年前の記事がある。先週引用した3年前の記事だ。

福音朗読 マルコ4・26-34

 20〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

からし種のたとえは、マタイ伝13章、ルカ伝13章に並行箇所がある。マタイ伝、ルカ伝ではパン種の話が同時に触れられているが、マルコ伝ではパン種の話はない。改めて読むと、育って大きくなるが、100%育つわけではないというようにも読める。イエスの愛の教えは、確かに育って巨大な世界宗教に成長した。しかし、それだけではすべての問題が解決できたわけではない。様々な良い実は結んだが、夢のような社会は到来しなかった。やがてすべてが解決されるのかもしれないが、まあほぼ可能性はゼロだと思う。一方で、だから無意味だとは思えない。

先週、金井美彦が砧教会の説教でブッダ伝 生涯と思想に触れていたので読んでみた。

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これを書いている段階では最後まで読み進んでいないが、とてもわかり易い。人間イエスに子供がいなかったかどうかはわからないが、ブッダ(シッたルダ)には子供がいた。彼が悟りを開いと時に子供への感情がどうだったかはわからない。書籍を読む限り、瞑想時にさとりは降ってきたように見える。無理に結びつける必要はないが聖霊の動きとどこか近い気がする。

出家と在家の話も興味深い。パウロは手に職があり、ローマ市民として保護されてもいた。しかし、その活動資金はそれだけでは足りず寄進を求めていた。いわゆる在家の支援無しにキリスト教も広まらなかった可能性は小さくない。

ブッダの教えもからし種のように広がっていった。同様にすべてを解決できてはいない。

改めて静かに現実を見、自分が見えぬものを認めてAha!を待つ。時が満ちれば必ず聖霊が降るというのが信仰であり、あるいは解脱であるのかも知れない。

※画像はWikipediaのからし種(英語版)経由でWikimediaから引用させていただいたもの