新生活193週目 - 「過越の食事をする」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体(2024/6/2 マルコ14章12-16, 22-26節)」。3年前の記事がある。3年前の記事を読み返すと、長い時間が経ったなあと思う。用語がわからなくて調べた記録が残っていたり、「今の私は外的にも内的にも陪餐の危機にある」と書いてあって感慨深い。今の私は砧教会で金井美彦が行う聖餐式では着席のまま拒否することにしている。祝祷も同じで、起立しないしアーメンとも言わない。事実に向かい合わずに弾圧行為を続ける今の彼は無資格者だと思うからだ。3年前の私は「この先、どんな未来が待っているのだろうか。」と書いている。今もこの先のことはわからない。ある意味で、時が満ちない限り変化は起きないのだろう。

福音朗読 マルコ14・12-16、22-26

 12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という箇所から何だかJesus Christ SupperstarのThe Last Supperを想起した。映画の弟子たちの歌は賛美の歌ではないが、何か心が和む。

映画の描写も解釈である。Jesus Christ Supperstarのイエスはユダの裏切りと自分の死刑についてはこの時点で知っているように描かれている。しかし、ゲッセマネの祈りを考えると、覚悟は決まっていないと思われる。とても人間らしいと思う。絵画や演劇などでたくさんの解釈がなされている。ダビンチの最後の晩餐の壁画も解釈だ。実際にイタリアで見学した時には特別に感動しなかったが、そのイメージは多くの人の記憶に定着していて、あんな感じで過越の食事がなされているのではないかと思っている人は多いだろう。実際がどうであったかはわからない。

聖書はその箇所に注目すると良くわからなくなることが少なくない。あえて焦点を合わせずに引いてみて大きなコンテキストで読むと納得してしまう。それでも、この箇所にも何らかの史実はあったはずで、実際にはどうだったのか知りたいと思う。

福音のヒント(2)で、過越の食事の場所への誘導はトリッキーな話として書かれている。私は、仕込みではなく霊が動いたと解釈している。一方、解説書の中にはユダ経由で体制側に知られないように会食の場所を隠したとする説を唱えているものもある。そういう仮説も成り立ち得るだろう。

これまで何回聖餐式に参加したか考えてみると、恐らく150回〜200回程度ではないかと思う。ニューヨークの教会でも、タリンの教会でも参加したことがある。それぞれに形式が微妙に異なるが、「取りなさい。これはわたしの体である。」、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」には必ず言及がある。砧教会では、食パンを小さく切ったものとぶどうジュースが用いられている。種入れぬパンが簡単に入手できるのであればその方が良いようにも思うが、象徴に過ぎないから何でも良いと考え方もあるだろう。

つきつめて考えれば、やはり聖餐式も祝祷も単なる儀式でしかなくそれ自身は空虚なものだ。ありがたがるのはナンセンスだと思う。一方で、儀式があること、それを繰り返すことは心の状態に大きな影響を与える。それを専制と隷従のために使うものは現れる。それを自分の心の安定に使おうとするなら、本当は心から信じていないことを認めることになる。それでも、信じる側に立つのか、それとも信じることを放棄するか、その判断は人間に任されているのである。

今の私は信じる側にいる。まがい者の司式する聖餐式や祝祷は否定し続ける方が良いと考えているが、確信はない。

※冒頭の画像はhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oblater Alterbrød 3.jpgから引用させていただいた。