新生活37週目 - キリストの聖体

hagi2021/06/06(日) - 09:21 に投稿
Carl Emil Doepler Fronleichnamsprozession (wikimedia/public domain)

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体(2021/6/6 マルコ14章12-16, 22-26節)」。プロテスタント教会では、聖体という表現を使わないので何だ?と思ったのが表題を見たときの正直な感想である。

wikipediaの聖体では「聖別されたパン」とある。後半に「プロテスタントの共在説や象徴説、臨在説では化体説を認めないので、聖体という呼び方はしない」と書かれていて、なじみのない言葉であるのに納得する。しかし、~説の連発でちょっと頭がクラクラする。理解を深めようとすると様々な考え方があることがわかり、その理解の不一致が深刻な分断につながることもある。異端の排除の端緒となる。「聖別」という言葉も考え始めると難しい。「秘跡」という言葉もカトリック教会の用語でこれまたなじみがない。それぞれ、何となく別世界の住民の常識のように感じられる。福音のヒントに学ぶようになってこれまでたくさんの共感と違和感を覚えてきた。それぞれの個人がどう考えるかは本来強制できることではない。刷り込みが効くことはあるが、疑問を感じると呪縛は解ける。意見の違いがあっても共に歩むことはできるケースは多いし、どうしても許容できないケースも起きる。私は、カソリック教会の会員はなんとなく味方だと思っているが、突き詰めていけば、同じ教会に通う身近な人とだって意見など完全に一致し続けることなどありえない。

一方で、内面で十分に一致がなかったとしても同じ祈りを共に声に上げて祈ったり、儀式をともにしたりすると、一体感が生まれるのは現実である。おそらく、人間はそういうふうにできているのだろう。

今日の福音朗読は、新共同訳では「過越の食事をする」、「主の晩餐」と題名がついている箇所で、途中イエスがユダの裏切りに言及するところがスキップされている。福音のヒントからスキップされた状態のまま引用させていただく。

福音朗読 マルコ14・12-16、22-26

 12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

これは最後の晩餐の記事で、この時イエスがパンを聖別しぶどう酒を聖別し弟子たちが食べ飲んだことを記念して、現在も聖餐式が行われている。この最後の晩餐のシーンをカトリックでは聖体の制定と捉えているのだろう。プロテスタント教会でも聖餐式は行われている。日本基督教団の教憲第8条に「聖礼典はバプテスマおよび聖餐(さん)であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる」とあり公式の儀式として洗礼と聖餐(だけ)が位置づけられている。カトリックでは、聖木曜日としてイースターの前の木曜日にこの最後の晩餐を記念し、三位一体主日の後の木曜日に聖体の祝日として再び記念する。英語版のwikipediaでは、ベルギーで提唱され13世紀に祝日となったと書かれている。なぜ祝うのかは釈然としない。しかし、祝日として制定し教会が集会を持てば、人々は聖餐を意識するようになる。聖餐を守る人は仲間になり、守らない人は仲間ではなくなる。考えるとちょっと怖い。

「取りなさい。これはわたしの体である。」という言葉は不思議な言葉だ。イエスを消化して自分の一部とするという風にとることができる。正直に言って、私は聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲むことでイエスを自分の中に取り込むことができるとは思わない。また、神父や牧師が物理的な食べ物を「聖別」する力を有し、その結果である聖餐のみが有効だとは思わない。ただ、「取りなさい。これはわたしの体である。」という言葉を繰り返し思い起こすことには大きな意味があると思っている。

福音のヒント(3)では「イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたのだと言えるでしょう」とある。そういう解釈はもちろんあると思う。ただ、そういう考え方に立つと弟子たちがイエスを取り込んで権威者になり、その権威者が儀式を行って権威を継承していくことができ、その継承を促進するように布教せよという階層的な構造を生むようにも感じられる。私は最後の晩餐は「取りなさい。これはわたしの体である。」という言葉を残すイベントだったと見ることもできると考えている。

バプテスマ=洗礼は一生に一回きりの体験で、聖餐は繰り返す体験である。日本基督教団の教憲には幼児洗礼に関する明白な規定は無いが式文には幼児洗礼式が記載されている。洗礼は一回きりのイベントなので幼児洗礼を行った段階で二度と行われることはない。式文では信仰告白式が記載されていてそれを経て聖餐の交わりに加えることになっている。自覚的に信仰告白をしなければ「取りなさい。これはわたしの体である。」を記念するイベントには参加できないシステムになっている。歴史の上に作られているよくできたシステムだと思うが、やはりなにか変だ。私の洗礼を司式した浅野順一牧師は聖餐式のときに、洗礼を受けていなくても心から聖餐を受けたいと思っているのなら受けなさい、洗礼を受けた正会員であっても今は聖餐を共にすることを望まないなら受けないようにしなさいと言っていた。日本基督教団のシステムには従っていなかったのである。当時も実際には、ほぼ100%聖餐を共にするのは受洗者だけだったが、恐らく「取りなさい。これはわたしの体である。」というメッセージの本質は聖礼典の規定を超えるものだという解釈があったのだろう。按手礼を領した教師でも解釈は分かれるのだ。それから40余年、今の私は外的にも内的にも陪餐の危機にある。

危機にひんしているときにこの最後の晩餐の記事は大きな意味をもつ。信じて告白して洗礼を受け、聖餐式の時に毎度「その測ることのできない愛と恵みをわたしたちの心に刻みつけるために、主は聖餐を制定されました。」と聞いてきた。まさに、この箇所のことだ。司式者が「ふさわしくないまま」の状態にあると感じれば、その聖餐式に陪餐するのは自分の良心が許さない。では、そういう状況の私には、「取りなさい。これはわたしの体である。」というメッセージは無効になったのだろうか。私は無効になったとは思わない。

福音のヒントに学ぼうとしていなければ、今日「キリストの聖体」のことを考えることはなかっただろうと思うし、ヒントに含まれる新たな知識を得る機会もなかった。感謝したい。

この先、どんな未来が待っているのだろうか。

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