今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2024/5/26 マタイ28章16-20節)」。3年前の記事がある。3年前は日本基督教団の信仰告白を引用していた。4年前の三位一体の主日は2020年6月7日。あの事件が起きて私の人生に激変が起きた。今3年前の記事を読むと、結構新鮮だ。教義としては知っているが、こじつけ感は拭えない。ただ、言語化されていると聖霊の働きだけが現実に直結することがわかる。聖霊が動けば、行動が変わるのは入信の原体験として記憶に残っている。
福音朗読 マタイ28・16-20
16〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
改めて、この弟子たちを派遣するという見出しがついている箇所を読み直すと「イエスが指示しておかれた山」という記述が気になった。Tabor山または山上の垂訓の丘とする説があるようだが、諸解説では場所の特定には意味がないだろうとする意見が多いようだ。私の妄想では山上の垂訓の丘だったのではないかと思う。弟子たちはガリラヤに戻って思い出を辿っていたのかも知れない。墓は空だったが、イエスの死とともに全ては終わったと考え、もともとの活動拠点だったガリラヤに戻った可能性がある。山上の垂訓の丘に行った時に、イエスに会ったのかも知れない。どういう体験だったかは想像のしようがないが、イエスと会う体験があったのだろう。悟りとしては、あっ、まだ終わってはいなかったのだということだ。
改めて危険を犯してエルサレムに戻ってイエスの復活の信仰の伝道を始めた。この仮説は私には説得力がある。私がそこにいたら、多分疑う者の一人だっただろうが、やがてエンジンが掛かって伝道の道に邁進していっただろうと思う。
私には救われた実感、聖霊とのかすかな遭遇の体験が有り、今も道に迷うとそこに立ち返って、この道は本物だと確信を取り戻すのだ。その原体験に立ち戻れば、いくら金井美彦に迫害されようと、砧教会で共に歩んでいたと思っていた人に裏切られても、自分の信仰告白は時の真実だと思うのである。
現実は厳しい。自分の考える優先順位が正しいかどうかもわからないし、とんでもない勘違いをしている可能性は小さくない。
64年生きてきて、これは間違いないだろうと考えたことでそれが間違いだった確率は低くない。信仰告白の経験は論理的に是非を判断することはできないだろうから、それが勘違いであることは否定できない。しかし、私は原点に立ち戻る時にあれは真実だったと思うのである。また、ある友が信仰告白しているシーンを見て、聖霊と共に現代においてもイエスは働いていると実感したことも思い出す。現実は厳しくても、少なくとも今の時点では私にはイエスの見守りがついていると確信している。
2020年6月7日問題は4年を経てまもなくどういう形であれ決着がつくだろう。
それぞれの信仰が試みにあっている。
※冒頭の写真はWikipedia経由で山上の垂訓の丘の写真を引用させていただいた。