新生活36週目 - 三位一体の主日

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2021/5/30 マタイ28章16-20節)」。最初に福音のヒントの冒頭部を引用させていただく。

教会暦と聖書の流れ

 教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難と死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音朗読は、マタイ福音書の結びの箇所です。

ペンテコステは印象深いが、私は三位一体の主日を意識したことはない。「三位一体(wikipedia)」は公会議で定式化されたもので人間が考え出した概念だ。言わば、正統をめぐる論争の結果として得られた合意である。聖書の正典の選定も会議で決めてきた。もちろん、様々な異論があり、三位一体を認めない宗派もある。現在は別帳会員と役員会が議決したので現住陪餐会員ではないが、私がかつて所属し、今も名簿上は準会員に相当する砧教会は日本基督教団に属し、教団には正式な信仰告白が制定されている。

我らは信じかつ告白す。

旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。

教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。

 

(1954年10月26日第8回教団総会制定)
(1967年7月6日第4回常議員会においてふりがな確定)

正統性をめぐる論争は約2000年を経ても収束しない。神とは何か、イエスとは何者か、その時点で神はどう機能するのかという問いは、福音を伝えよという命令に従うことにした個人は、伝えた相手から質問されたら答えられなければいけない問いとなる。それぞれの自分の体験に基づいて判断するわけだから、一致するわけはなく、一定の一致を見るためには文書化する以外にない。日本基督教団は

  1. 聖書は正典
  2. 三位一体説を支持
  3. 教会の礼拝、宣教と聖餐の重視
  4. 信仰理解を信仰告白として定式化

といった内容を文書化、標準化していると理解している。私は何百回も使徒信条を声に上げて読んでいるが、正直に言って自分が何を告白しているのかよく分かっていない。理解としては、先人がさまざまな議論のもとに正統な理解を作り上げたのだから、恐らく正しいのだろうという程度のものだ。一方で、イエスは人間だが神に直接つながっていたという信仰はあるし、現在も神の不思議な働きは起きていると感じているので、三位一体に違和感はない。ただ、難解だし文書にして読むと不完全感がある。理解を文書化しただけでは力が無いのだ。私は、聖霊の働きなしに言葉は人の心に届かないと感じている。理解はある程度論理的に整理できる。そして論理的に整理できれば合意に至りやすい。しかし、合意に至るというのと、それが自分の行動規範として力の元となるのは全く別のことだ。ペンテコステは、聖霊が圧倒的なパワーを発揮したイベントで、言葉に関わるイベントだが、理解に基づくようなイベントではない。

そういう理解のもとで、冒頭に引用した福音のヒントの言及を読み直すと共感を覚える。三位一体という神学的な教え(あるいは理解)を考えるより、「神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう」と捉えるのはありだと思う。理解は重要だが、それが力をもつのは別次元の問題であり、理解がなくても機能するし、理解があっても行動につながらないことはごくあたりまえに起きる。

ここで、福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 マタイ28・16-20

 16〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」は、行動しなさいというメッセージだ。聖霊は弟子たちの心に火をともし、ともされた者に自分の喜びに留まることなく世に出よと言っている。

福音のヒント(2)で「この命令の中心は「弟子にする」こと」とある。また、「もちろん、弟子たちの使命は自分たちの弟子を作ることではなく、「わたし(イエス)の弟子」を作ることです」と書かれている。至極まっとうだと思う。理解を進める時には、師が有効だ。自力でできることは限られるし、優れた師がいれば理解は早く深くなる。だから牧師や神父は師としての役割をもち、その師の弟子となるのは少しもおかしなことではない。しかしながら、その師は理解の師であって、信徒はイエスの弟子とならなければ意味がない。自分の言葉が届いたと勘違いしてはいけないのである。誰が福音を伝えたかという過程は本質的ではない。イエスの弟子を作るという結果が本質的だ。そして、どう動こうと聖霊の働きがなければ火は灯らないのだと思う。

洗礼は、信者となることで福音を伝えられる側から伝える側に変わる瞬間となる。福音のヒント(3)で「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」というふうに書かれているが、ある意味で、この瞬間に洗礼者の使命は終わるのだと思う。一方で、理解には限りがない。イエスの弟子となった後にも理解の師が必要なことはある。このために教会と礼拝を守るという規範を制定することが有効だというのが日本基督教団の理解だと私は考えている。常人は一人で遠くまで歩くことはできない。だからコミュニティは必要である。

奇しくも昨年の三位一体主日に私は牧師と同じ思いを共有していると信頼していた人たちに裏切られたと感じることになったイベントが起きた日である。この「新生活」ブログは、それからしばらくして砧教会を出て歩み始めた記録でもある。一年を経て、確信は変わらない。忍耐強く冷静に真実を追求し続けたい。いつか聖霊が働く日が来ると信じて、待ち続けようと思っている。あきらめたらそこで終わりだ。

※図はwikimediaから引用