今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第5主日 (2024/4/28 ヨハネ15章1-8節) 」。3年前の記事がある。3年前の記事を読む前にこの聖句から感じた内容はほぼ同様のものだった。
福音朗読 ヨハネ15・1-8
1〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
改めて3年前の記事を読むと全面的に共感する内容だった。最後に
『私は、今かつてつながっていた教会の現住陪餐会員からは外れている。外れたままにしているのは牧師と役員会の意思である。私には「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」状態に見えている。私はずっと「イエスというぶどうの木につながっている」という問いに向かい合い続けている。自分が間違ったことを主張している自覚は全く無い(間違っている可能性は否定しようがない)。
と書いている。
これに先立つ2021年3月に総会で議案することを以下のように日本基督教団砧教会役員会に提起しているが、完全に握りつぶされた。
今回の一連の騒動は、6月7日に会堂再開を佐分利正彦氏が企図し金井美彦氏が実施し、私が書記役員の当然のつとめとして総会決議遵守を求めたことを受け入れることができなかったために徐々に情報隠蔽が深刻化し、最終的には6のレターをもって教会内に深刻な分断を招いたものと私は考えています。役員会諸氏からは、萩原が反逆者に見えているのかも知れませんが、それぞれの事実を確認し、それぞれの萩原の主張の誤りを正すか、主張を受け入れ、不適切な部分があれば正していただくことを求めます。より具体的には、1の主張が総会で受け入れられた場合は金井美彦牧師への総会決議違反に関する非難決議、2以降の主張に連動して7月の臨時総会の取消、書記で適正な議事録記録や開示を推進する立場にありながら事実隠蔽を行った佐分利正彦氏の役員、責任役員、教会学校校長の解任および3年間の被選挙権停止を総会決議で行うことを希望します。金井美彦牧師には、6の結果として私や私の家族を含めて傷んでしまった関係の修復、特に結果的にクリスチャンにあるまじき行為に加担させられることになってしまった佐分利正彦氏を含む現役員諸氏のケアに全力を尽くしていただくことを希望します。また、萩原個人として佐分利正彦氏を除く現役員全員に対して自主的な辞任を勧告します。
3年経過して、この時の認識から全く変わっていないし依然として問題は解決していない。
しかし、今日の聖書箇所を母教会につながっていることは必要なことと考え、礼拝出席を継続しつつ、真実を求める声を継続的に上げ続けている。問題が解決されるまで決して声を止めることはない。
福音のヒントの最後に
2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたちはキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです!
とある。「キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないように」はよく練られた表現だと思う。「知った」という言葉が重い。同時に後半のキリストは教会と置き換えて読むこともできるところにはリスクがある。私は「キリストを知ったわたしたち」は信仰告白をして受洗したという意味に取り、後半を初心を忘れないようにして、受洗の原点に戻りなさいという風に解釈している。コミュニティの観点では、聖餐に参加することになる。しかし、問われるのは本来聖餐を行うことが許されるべきでない者が司式する聖餐に臨むことの可否だ。専制と隷従の関係であれば拒否しなければいけないが、信仰告白の原点は思い起こせなければいけない。
試練は起きる。避けられないことだ。
※画像はWikipedia経由で引用させていただいたLeos Moskos: Christ the Vine。