新生活187週目 - 「イエスは良い羊飼い」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2024/4/21 ヨハネ10章11-18節)」。3年前の記事がある。共観福音書には平行箇所はない。biblehubでは引用箇所として、詩篇23篇、イザヤ書40章、エゼキエル書34章が掲載されている。3年前の記事は短かった。ヨハネ伝のこの箇所のイエスのインパクトはとても大きくて受洗のきっかけとなった。しかし…

福音朗読 ヨハネ10・11-18

 〔そのとき、イエスは言われた。〕11「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。——狼は羊を奪い、また追い散らす。——13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

詩篇23篇は暗唱聖句として良く用いられる。 もう暗証できないが中学の頃「ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ」で覚えた。聖書版の同行二人である。

福音のヒント(4)で16節の「この囲い」について触れているが、教会のことと言うよりはユダヤの民を指すと考えたほうが自然だ。人間イエスは、恐らく異邦人伝道はスコープに入れていなかっただろうと思う。一方で、サウロ・パウロに現れた復活・昇天のイエスはもう異邦人とユダヤ人を対等に扱っているように思う。狭く捉えればサマリアは「この囲い」の外側になるが、生前のイエスは「この囲い」の外とは考えていなかったように見える。カナンの女の話を思い起こせば、ユダヤ人以外に対する差別を感じるが奇跡は届いている。洗礼を受ける頃はキリスト教はローマを中心とする白人を中心にする宗教に見えていた。自分はその囲いの外側の民だから、おこぼれをもらうという立場のような気持ちがあった。しかし、ローマはユダヤではない。そもそも生前のイエスの「この囲い」の外である。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」によって、「この囲い」は国や民族を越えるので、自分も群れに連なることができるようになる。この箇所のインパクトは大きい。

しかし、福音のヒント(4)のように教会あるいは教団、教会内の派閥等のような新たな囲いが生まれてくる。それでは愛の世界は来ない。内側か外側かという区別あるいは差別の原因となる。では教会や洗礼に意味がないかと言えばそんなことはない。洗礼はイエスの教えに従うという宣言であり、自ら信仰告白することにより自分の規範を決めることになる。自分と神との間の約束であり、その事実が自分を伝道者に変える。教会にはイエスの力が働く。仮にそれが受洗者とそうでない人を分け隔てする原因になるとしても存在を否定すべきでない。ただ、教会という組織が特定の人物に依存するようになるリスクには十分な注意を払わなければいけない。コリント前書3章でパウロが説いたように伝道者が伝導したとしても一度自分で信仰告白ができたら、伝道者をイエスと自分の間に存在する仲介者にしてはいけない。別に関係を断つ必要はないし、尊敬の念をもって接することができれば好ましいが、間違いの無い存在などないから是々非々で良いのだ。

イエス様は私を守ってくださるという信仰は単純で力強い。この箇所は信仰告白を促す力強さがある。ただ、教会権力への依存を誘発するリスクも含まれている。多分、人間イエスはこの通りの発言はしていないだろう。同時に、再構成して文書に残すとすれば適切なメッセージと言って良いだろう。

ちなみにカトリックの聖書朗読箇所では

第一朗読 使徒言行録4・8-12

 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
 隅の親石となった石』
です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

となっている。ペトロは自分の力ではないと明言している。ペトロに精霊が下ってもペトロが人間であることに変わりはない。教会は常にその事に注意を払わなければいけない。

聖書にも専制と隷従の罠がかかっているが、真実に至る道がそこにある。福音書だけではなく、広く目を通しておいたほうが良い。

※画像はWikipedia経由で引用させていただいたThird century Fresco of Jesus as the Good Shepherd