今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第3主日 (2024/4/14 ルカ24章35-48節)」。3年前の記事がある。マルコ伝16章を並行箇所とする考え方もあるが、あまり似ていない。むしろヨハネ伝20章19節からとの類似性が際立つ。
福音朗読 ルカ24・35-48
〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕35道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」
ルカ伝はマルコ伝、マタイ伝よりは後に書かれたのはほぼ間違いないと思われるが、90年〜110年あたりとすると、ヨハネ伝の執筆時期と同じ頃ということになり、ヨハネ伝がルカ伝を参照したのか、ルカ伝がヨハネ伝の記述を受けて改変されたのかはよくわからない。Wikipediaの英語版等を見ると、意見の一致が見られていないのは分かるし、ルカ伝の著者が誰かについても様々な疑問が提示されているようである。
この前のエマオの話でもそうだが、復活のイエスはひと目で生前のイエスと同一人物と分かるような存在ではなかったようだ。同一人物であることを証言できるのは、親兄弟などの近しい人と側近たちが有力なのは間違いないが、聖書の記述ではマグダラのマリア以外は気がつけていないように見える。マグダラのマリアも最初はわからなかったようにも読める。史実はともかく、このことはかなり示唆に富むと思う。
現代の私達は、実物のイエスを知らないが、自分に働きかけるイエスが本物かどうかはわからない。それは、2世紀の信徒も同じで、誰かが私は復活のイエスと会ったと言われてもそれが本当かどうかはわからないのである。傷跡を見て信じるというのも怪しい。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず」とあるから、側近が見ても信じられなかったということだろう。
福音のヒント(4)では
復活したイエスが今の自分たちの中に働いていて、神と一つに結ばれるいのちを自分たちが生きているということをあかしする、それは、言葉よりも生き方によるあかしだと言うべきでしょう。わたしたちもこの証人としての使命をいただいているのです。
と書かれている。自分が述べ伝えようとしている復活のイエスは本物なのか、私は本当に復活のイエスに出会ったのだろうかという問いには客観的な答えは存在しない。「復活したイエスが今の自分たちの中に働いていて」は正に進行そのものであり、狂気と言えば狂気である。
自分に働きかけるイエスが本物かどうかは、聖書に当たる他無いし、聖書のテキストにも相互矛盾があって安易に信じることはできない。その上で、多数の先達が福音を述べ伝えてきて今もキリスト教は生き残っている。とても不思議なことだ。
※画像はThe Florida Center for Instructional TechnologyのJesus Appears to Eleven of the Disciplesから引用させていただいた。