新生活185週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2024/4/7 ヨハネ20章19-31節)」。マルコ伝16章、ルカ伝24章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 3年前の記事は、かなり今の書き方に近づいている。今読んでも書いてあることに違和感はない。今も旅の途中にいる。

3年間新生活シリーズを書いてきて、改めて感じるのはヨハネ伝への違和感である。共観福音書間でも異なる記述は少なくないが、ヨハネ伝の記述はどう見ても盛られている。30節に「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」と書かれているが、これは教団の正統性を主張しているとしか思えない。もちろん、19節〜29節までの物語が事実通りであっても今の私は驚きを感じないが、全くの創作かも知れないとも思う。

盗掘ではない空の墓は恐らく事実で、その後の霊の業は個人に起きたことなのではないかと思う。もちろん、同じ場所にいる複数の個人に対して同時に何かが起きることもある。集団ヒステリーに見えることもあるかも知れない。それを信じるかどうかは個人の問題でもあるが、それだけで済ませるわけにもいかない。

宗教は恐ろしいものだ。特に特定個人や集団の神格化は怖い。一度本物だと信じてしまうと価値観が変わってしまう。人としての距離が近くても遠くても影響を受ける。今日の箇所で言えば「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」はとても危ない。使徒の神格化の走りと言える。現実には完全無欠な人間など存在しない。ただ、行動指針は降ることがある。自分の考えであって自分の考えではない。重要な局面で自分がどの道を選ぶかは自分で決めているようでもあり、自分と無関係に決まっているようでもある。

聖書の記述を信じるということと、復活のイエスを信じることは別だ。愛に生きよという教えに従えというメッセージだけは不変だ。自分の中に愛がないわけではないが、愛に満ちているわけではない。それはどうしようもないことだが、愛に生きたほうが良いということだ。身も蓋もないが、必要なときには霊が降るということを信じている。

※冒頭の画像は、Brooklyn MuseumのThe Appearance of Christ at the Cenacle (Apparition du Christ au cénacle) James Tissotから引用させていただいた。