新生活184週目 - 「復活する」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活の主日・復活徹夜祭 (2024/3/31 マルコ16章1-7節)」。3年前の記事がある。3年前の記事では、イエスの墓に注目していて、聖書箇所への言及は少なかった。

福音朗読 マルコ16・1-7

1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

マタイ伝では、マルコ伝の白い長い衣を着た若者は主の天使。眼の前で石を転がしたことになっている。ルカ伝では、輝く衣を着た二人の人となっている。マルコ伝と同じく事前に意思は既に転がしてあった。マタイ伝では、イエスがこのタイミングで婦人たちに現れている。弟子たちとはガリラヤで会うという記述は共通している。ただルカ伝では2人の弟子とエルサレムの西にあるエマオで会う記事がある。

ガリラヤはイエス、ペトロの地元で、引用した冒頭画像で、ヨハネ伝だけに記されている部分を落とすと、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける時はエルサレム近郊にいたが、それ以外の時期はガリラヤにいて、最後の3ヶ月だけエルサレムで過ごしていたことになる。史実はわからないが、ガリラヤで組織化して、エルサレムに上っていって地域の活動を国の活動にレベルアップしようとしたと考えると整理しやすい。弟子たちは、イエスなら成功すると信じてついて行ったのではないだろうか。そして、短期的視野で見ると完全に失敗したと見るのが自然だと思う。一方、マルコ伝ではガリラヤ時代に8章で受難予告をしているので、イエス自身は自分の死と復活を知っていたことになる。しかし、その時点では誰もイエスの言葉を理解できなかった。そして、今日の記事を読む限り、ペトロの離反予告の際に「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と述べていたこともイエスの死とともに無効になったと考えていたらしいことが分かる。そう考えるのは自然だ。誰も復活するとは信じていなかったのだろう。しかし、空の墓と「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたことを忘れるなというメッセージが現実だった。

使徒行伝を読むと、ガリラヤでイエスと再開し、再びエルサレムに上って、マティアをユダの代わりに弟子に選出して、聖霊降臨に至る。弟子たちが、イエスの復活を実感し夢ではなかったと思うようになった。弟子たちからすると、共観福音書は自分たちの無理解の証言でもあるわけで、結構恥ずかしい内容になっている。それでも、真実を記録しておくべきだと考えて協力したのだろう。教会の組織化は必要だったから、意図的な編集はあっただろうが、基本姿勢は誠実だったのだと思う。

イースターは空の墓を再体験する機会と考えるとよいのかも知れない。

人間イエスの教えや行いの伝承に心惹かれ、過去の偉人や信者への信頼でその道への真実性を何となく信じるようになる。しかし、人間イエスの活動が十字架刑で終わったように、イエスの教えに従っても成功はしない。思った通りの結果には結びつかないのである。しかし、終わった屍を拾いに行ったらそこにあったのは空の墓だったというのが今日の箇所だ。イエス伝は空の墓で終わったと言える。そこから先は、イエス以外の人間の体験と信仰の物語だ。もちろん、側近の体験から始まるわけだが、側近でもなんでもないパウロの体験が歴史を変えていった。

福音のヒント(4)bの「ガリラヤはイエスと弟子たちにとって、故郷であり、生活の場でした。わたしたちにとっても、復活したイエスとの出会いの場は、自分たちの生活の場の中でのことだと言えるのではないでしょうか?」という考え方に共感を覚える。そして私達も未達のまま死んでいく。真実に生きれば、自分の死体は空の墓となるのだろうか。その先に何があるかはわからないが、その墓を出て良い影響を及ぼし続ける存在になれるのであれば素晴らしいことだと思う。「自分たちの生活の場の中でのこと」に真実をもって向かい合うことだけが私達にできる唯一のことなのではないかと思う。短期的には望むべくもないことでも、良いことなら必ずできると信じられている時は幸せである。現実が苦しみに満ちていたとしても、だ。

※冒頭画像はWikipediaのChronology of JesusからたどったWikipediaの画像