FOSSもCommonsも支えている人がいて成り立っている

そろそろ隠す時期は終わったと思うので、正直にDrupal Association Japanの立ち上げに主幹として関わっていることを告白する。

もともと、願っていたわけではないが、自分の経験の中で得たお金感覚の話でもあり、理想を目指すと視野狭窄になるという経験に基づくものでもある。私自身の野心が枯れているとはとても言えないが、本心から恩返しをしたいと思って火中の栗を拾う決断をした。自己責任を負わねばならない。

FOSSで最初に成果を上げたのは、GNUだと私は考えている。Texはその前という議論もあるだろうが、私は知らなかった。

Commons=公共財の話も、若い時期には全くわかっていなかった。公園にも地面があるからには所有権を持たなければ自由には造園できない。すべてを金に換算する必要は全く無いと思うが、人間は霞を食って生きることはできない。それは現実である。ある人は、箒を持って掃く、ある人は自分の遺産を寄贈する、ある人は持続性を保つための法制化に力を出す、といった様々な人の働きの結果がCommonsなのだと思う。

現実問題として、私にはDrupalでの実績はない。人を引き付けるようなカリスマ性もない。トランプのような強引に話をまとめるような力は全く無い。自分にできることを突き詰めると、ただただ誠実に良いことをしようと思い続けることだけはブレていないと思っている。それしかない。それでも、単に自分の正当化のために使っているだけかも知れない。正直に新Drupal Associationの創立者になる名誉が欲しいという思いが僅かではあるが、ある。私心はゼロだと思いたいがゼロではない。我欲からは自由にはなれていない。それでも、Drupal Association Japanが今後の事を考えると必要だと思っているので、協力者が一人もいなくなるまでは諦めるつもりはない。毎日が綱渡りなので、毎日心が折れるが、なんだか救ってくれる人がいて、今日この記事を書いている。

FOSSの成功例で最大のものはLinuxであることに異論を唱える人はないだろうと思っている。なぜKnuthとその後のGNUはLinuxになれなかったのか、なぜLinuxは全世界の社会基盤になったのかを考えると、経営とは何かという問に直面する。Knuthは紛れもなく知の巨人だったと思うが、Linus氏は知の巨人であると同時に経営者なのだと思う。私はDriesにも同じ匂いを感じる。

私は、DrupalのContribution Projectを立ち上げる技術力はないし、Drupalを進めるための財源を供給するようなビジネス上の成功もない。でも、私はDrupalは本物で、デジタル公共財として育てるのが人類の持続性に資すると思っている。だから、頑張っているのだが、応援する人が去っていけば心が持たない。

どうか、応援して下さい。

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