新生活180週目 - 「神殿から商人を追い出す~イエスは人間の心を知っておられる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第3主日 (2024/3/3 ヨハネ2章13-25節)」。マタイ伝21章、マルコ伝11章、ルカ伝19章に並行箇所がある。3年前の記事がある。3年前にも注目したが、ヨハネ伝と共観福音書では時系列が異なっている。共観福音書では神殿を「祈りの家」と位置づけているのに対して、ヨハネ伝では明示されていない。

福音朗読 ヨハネ2・13-25

 13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
 23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

改めて読み直した感想は、基本的に3年前と変わらない。

BiblehubでBSBの英語だと、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」は、 “What sign can You show us to prove Your authority to do these things?”とある。日本語に訳せば、これらのことを行う権限があることを証明するしるしを見せることができるのかという訳辺りが適当だろう。Authorityは意訳挿入のようだが、糾弾する側の感覚としては理解しやすい。恐らく、彼らには商売を許可する権利があり、見返りもあったのだろう。マルコ伝には、この糾弾の言葉はなく「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」と書かれている。香港民主活動家の周庭氏と中国政府の関係や、ナワリヌイ氏とプーチンの関係を想起させる。祈りの家であるべきと言われればまあそのとおりだと言わざるを得ないだろう。もとを辿れば、生贄は自分のものを捧げるのが筋で、神殿で買って捧げるのは変だ。ちょっと免罪符、贖宥状のことも思い起こさせる。カトリックも神殿商売に堕ちた歴史がある。決して、祭司長たちや律法学者たちが極悪人だったわけではなく、体制が徐々に腐っていっていってどうにもならなくなった面もあったのだと思う。むしろ、体制を守ることが正しいと心から信じていた犠牲者かも知れない。その誘惑の原点は上下関係にある。どの時代にも、どの組織にも起こり得ることだ。

ヨハネ伝では、売られた喧嘩を買っていて、復活の事実が私に権限があることを証明すると言っている。私は、このやり取りの事実はなかったと思う。マルコ伝11章では、少し後ろの方に「権威についての問答」という箇所があり、ここで祭司長、律法学者、長老たちが「何の権威で、このようなことをしているのか、だれが、そうする権威を与えたのか。」と言っていて、イエスは直接は答えず、本来はどうかを彼らに考えさせている。権威に頼らなければいけなくなっている時点で、もう堕ちているのが分かる。権威は人をまとめるのに便利だが、気づきを誘う以上に使えば、腐敗を進めるリスクがある。一歩進むたびに愛の原点に立ち返るべきだろう。

イエスの磔刑は時の権力の勝利だったわけだが、それは終わりの始まりだった。一方、ユダヤの権威がイエスの声に従ったとしてもユダヤの滅亡が起きなかったとは思えない。少なくとも、ローマはそんな動きは押しつぶす側に動いたはずで、実際キリスト教に対する弾圧はあった。長期で見れば、自由を求める民意を止めることはできず国家とは別の力を持っていった。

排除で問題を解決しようと動き始めたら、その体制はほぼ間違いなく腐っているか腐りかけている。無論、相性もあるから、うまく行かないことはいくらでもある。何らかの形で原点に戻って、違う道を行くとしても一方的な排除の形で終わらないほうが良いのは間違いない。

砧教会は、今年のイースターが3月31日で年2回で、2024年度にはイースターがないから、イースター献金を4月にするように会員に呼びかけている。イースターを祝って献金を募るのは神殿商売と変わらない。金井、佐分利や会計担当をはじめとした役員は、自分たちが神殿商売の胴元と勘違いしているとしか思えない。頭が腐れば組織は腐る。本来の姿がどうあるべきかより、組織の維持や権力の維持を優先させてしまうのだ。自分たちがイエスに糾弾された体制と同等の存在に堕していることに気づくことができない。悔い改めて福音を信ぜよと声を上げなければやがて滅びることになるだろう。小さな保身に堕ちた今の金井美彦には牧師の資格などない。本来の姿を見つめ直さなければ明日はない。週報には、ウクライナの劣勢を欧米の援助の滞りに求めるようなポエムが書かれている。具体的には武器を供給してロシアを倒せと主張していることと変わらない。言ってみれば、教会が広報媒体で殺人を推奨していることと変わらない。愛の世界でなく、力の世界に軸足を置いてしまっている。道を外してしまった教会(書記)としか言いようがない。老いた者には難しいかも知れないが、目を覚ましてほしいものだ。事実を重んじ真実を追求して欲しい。

砧教会に限らず、組織はほぼ例外なく腐る。恐らく、そういうものだ。しかし、新陳代謝や原点回帰で、進むべき道を見いだせた事例も過去に限りないほどある。個人もそうだ。誰もが慢心する。自分が輝くことを求めることには何の問題もないが、輝いたと思った時にそれを自分の力と勘違いして、維持しようと思ってしまうと道を外す。私自身、何度も慢心してきた。慢心せずにいられる人は、幸いであると思う。

※画像はエル・グレコのChrist cleansing the Temple