新生活175週目 - 「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第4主日 (2024/1/28 マルコ1章21-28節)」。マタイ伝4章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 マルコ1・21-28

 21イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

3年前に引用した「なぜイエスはカファルナウムに活動拠点を移したのか?」と次の記事「カペナウムについて考古学が明らかにしたこと」を読み直してみた。史実がどうだったのかという仮説としてはなかなか説得力があると思う。23節からの記述は、考古学的に証明することは不可能だが、仮説とは言え、説教を行ったシナゴーグが特定され、その背景が考察されているのは興味深い。なぜ、そこで登壇できたのか、誰がそれを承認したのかを検討する価値はあると思う。23節からの記述への解釈は3年前に触れているので再び触れない。ただ、当時と解釈が同じかと言えば、そうではない。もちろん、「内側から出てくる愛の思いに生きよ」というメッセージとして受け取る部分は変わらない。私としてはそれで十分である。

「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」については、福音のヒント(1)では、「律法学者は、律法と口伝律法をもって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するか、についての何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。『神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない』というのが律法学者の教えでした。」と書いてある。曲解することなく律法学者がその姿勢をつらぬけば、決して変なことにはならないと思うが、権威は「昔の律法」にある。それに対して、イエスの説教は「神が今まさに何かをなさろうとしている、というメッセージ」だとしている。「昔の律法」を本質に基づいて上書き解釈しているということになる。普通に考えれば逸脱行為だ。一方、「何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたもの」は硬直的になりやすく、そもそも実際に旧約聖書を読むと矛盾もあれば分けの分からない教えもある。現代の知見に照らせば同性愛を犯罪に位置づけるのは異常だし、男尊女卑ルールもある。現代では性的指向が物理的な性と連動しないことがあるのは分かっているし、むしろ聖書の教えに従うことが人の不幸を生むケースがあることもよく分かっている。教条的に律法を守ることが御心ではないという立ち位置は、斬新だが合理的である。そういう意味では、「神が今まさに何かをなさろうとしている、というメッセージ」というよりは、自分たちで社会がよりよくなる方法を考えなさいというメッセージに近いと思う。イエスは決して昔の律法を否定したわけではなく、適用するのが適さない局面で無理に守るのではなく、御心の本質に基づいて判断せよと解いたと解釈したほうが良いだろう。

律法学者は権威を伝統的解釈に依存しているので、自由な判断ができないだけでなく、本来自分に属する権威ではないものを自己の権威のように他を裁いてしまうので害悪となる。現代であれば、牧師の権威などとうそぶくものは律法学者と同じである。もちろん、聖書学者的な知識の高さは称賛されてしかるべきだが、それを振りかざして事実を曲げるような行為は、律法学者と全く同じだ。事実は事実。イエスの教えとして何が語られたかという事実および解釈は忠実に追求すべきだが、事実を曲げて排除するような牧師はまがい物としか言いようがない。自分に権威があると勘違いしているなら、道を正すべきだろう。聞く耳が無いほど堕落してしまったら、教会はその牧師を追放する以外の道はなくなってしまう。イエスは、聞く耳を持てと主張しているのであって、最初から排除しようとしているわけではない。律法学者に対しては旧約聖書に権威をおいて、それを自分に重ねて暴挙をなすなと言っていると考えるのが妥当だろう。そして、権威に守られている人はその罠に陥りやすいのだ。現代の牧師だって全く変わらない。本質に向き合うことができなくなり、塩が塩の効力を失ったらそれで終わりである。そういう意味では誰しも同じで、自らについて厳しく向かい合わないわけにはいかないのである。自分の道に向かい合わなければいけない。一人ひとり環境は違い、一致しないことばかりの中で、どう愛の原則に立つことができるかが問題となる。権威者の意見は参考にしたほうが良いが、従属することなく神に聞けということだ。そして、必要なときには、聖霊が遣わされるというのがキリスト教の救いである。ただ、いつ何が起きるかはわからない。必要なときには遣わされることを信じて、日々の歩みを進めるしか無い。

本当はありもしない律法学者の権威を笑い飛ばし、平等に真実に向かい合えというイエスの解釈のインパクトは大きかっただろう。

新約の時代にあっても、人間が陥りやすい権力、権威への依存癖は不幸の源泉となる。事実に向き合い、それぞれが平等な人権を意識して合理的な道を探ることが、御国を来たらせ給えという祈りの本質だろう。正しいと思う道にも誤りは含まれる。誤りを見つけたら、それを反省してより良い道を探せばよいのだ。私は人間イエスも数々の誤りを犯しただろうと思っている。しかし、常に本質を追求していただろうし、必要な時には聖霊が働いたのだろう。復活はその象徴的事例だ。常識的に信じられるようなことではないが、霊が働いてなぜか少なくない人がそれを信じるようになった。なぜか、復活のイエスを告白できるようになったという過去の事実を否定することはできない。まあ、何でそうなったんだろうと考えてしまうことはある。それでも、本当に必要な時には霊が働くということを私は信じている。

※画像は、「カペナウムについて考古学が明らかにしたこと」で引用されているWikimedia Commonsの「4世紀後半の白いシナゴーグの下のイエスのシナゴーグの痕跡」。