新生活150週目 - 「イエスの姿が変わる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の変容 (2023/8/6 マタイ17章1-9節)」。

福音朗読 マタイ17・1-9

 1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

並行箇所を含めれば、この箇所を取り上げるのは4回目となる。2021-02-272022-03-132023-03-05で、受難節に取り上げられる場所だ。過去の記事を読み直すと感じることは今と変わらない。

福音のヒント(5)に「8月6日・広島原爆の日から、8月9日・長崎原爆の日を経て、8月15日・終戦の日までの10日間を、日本のカトリック教会は、平和について学び、平和のために祈り、行動する「平和旬間」としています。」とあった。

Wikipediaで「日本への原子爆弾投下」と他言語リンクで出てくる「Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki」は、記載内容に差がある。広島の死亡者数の推計は日本語ページの方が多い。どの期間で集計するかの違いかもしれない。記述の内容もかなり異なっていて、どちらがどうということではないが、日本語版では、「投下の理由」が最初に出てきているのに対して、英語版では「背景」が最初に出てくる。投下の理由は重視されていない一方で、広島で医師の9割、看護婦の93%が死亡したことが書かれている。評価に関しては、英語版では「Debate over the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki」という別記事になっている。

原爆投下一つをとっても、何があったのかはともかく、なぜ起きたのかはわからない。また、原爆投下が敗戦を受け入れさせたかも明らかではない。なぜ戦争が始まってしまったのかも良くわからない。

現実的な問題として、もしイエスが今現れたとしてもウクライナの戦争を終わらせることはできないだろう。

今回のウクライナの戦争で、ドイツも相当な武器を保有していたことが明らかになった。その戦車を使ってウクライナはロシアと戦っている。武力がなければやられっぱなしになるのは間違いないだろうが、だから武装しなければだめだというのはおかしい。今の東京は、夜女性が一人で歩いていても襲われる危険は大きくない。状況が安定していれば、武装は不要だ。一方で、日本でも力に頼ることを好む人はいる。虚偽答弁がバレても権力にしがみつくような行為は少なくない。それが許されるようになれば、正直者がバカを見る社会になる。権力の中枢に至るまで公平な社会を目指す以外の道はないだろう。目指していても気が付かないことはあるが、気がつけなかったことは見直していけば良い。

強者の権利の保護がとても厄介だ。一度得た権益を失うのは、それが公平性にかなうとしても耐え難い。国益という言葉は戦争の種となる。キリスト教国とイスラム教国という区分をすることが人々の目を曇らせる。教会指導者もキリストを信じなければ救われないと言ってしまうことがある。そういうコンテキストで今日の箇所を読み直すと結構危険な記述だと思う。全能の神と、有力者の会合に陪席するというイベントは自分の意志の放棄を招きかねない。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という言葉は、命令に従えという風に取りたくなるが、イエスは、これをしろ、あれをしろとは言わない。ユダヤ人としての権利があるとも言っていない。むしろ不遇にめげるな、あなたには生きる価値があると力づけるような話が多い。権力の不適切な行使に厳しい。政権の転覆を謀ったわけでもなくだめなことはだめだと言っただけとも言えなくはない。

「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」内容は開示されていない。

起きてしまった戦争を止める力は誰にもない。日本の戦争も原爆で止まったと考えるのは単純すぎる。武力で圧倒すれば何とかなると考えるのは誤りだろう。

自分たちにできるのは、近いところで公平性の向上に力を出すことだろう。公平に反する行動を厳しく諌め、力に頼る人に権限を与えないようにすることだ。求めれば、時間がかかっても平等と公平は育つ。差別も軽減できる。差別の気持ちに負ければ平和は遠のいていく。常に、ナショナリズムの罠にさらされているが、国籍を超えた市民権の確立を目指したら良いと思っている。

公正な競争はあった方が良いが、共通部分が分かってきたら、その部分は公共財化できたほうが良い。例えば、特許は一定期間が経過すれば権利が消滅するように設計されていたが、一度権益が発生するとどうしてもしがみつきたいと思う人が出てくる。所謂先進国は、権益の寡占化の罠に陥らないようにいけないだろう。慢心は衰退や破綻の種となる。いつまでも過去の発明や栄光にすがってはいけない。

平和の構築は欲との戦いでもある。一時的に力を使って守れたとしても、賞味期限が切れればどんな権力であれ倒れる。かつて日本がそうだったように、力に頼る勢力は倒れる直前が一番迷惑だ。差別的傾向が高まっているかどうかで状況は計測できる。破綻する前に権力の集中を止めるよう出せる力を出せば良い。特定の人に依存しない社会を目指すことが平和への近道だろう。イエスの教えは、そういうものだったと私は取っている。教会や教団に権力をもたせる必要はない。人権は普遍的なもので、信者であろうがなかろうが誰にでもあると考えないとおかしい。その上で、信じた者は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という言葉を受け止め、聞いた福音を広く伝える役割を担えたほうが良いだろう。

※冒頭の画像はWikipedia英語版からたどった広島原爆。Wikipediaでは2から5分後とあるが、Wikimediaでは20分から30分後となっている。強さを志向すると武器の破壊力は拡大する。現実への対応は避けられないとしても、抑制的でなければいけない。私は、アメリカは力に酔ってやってはいけないことをやってしまったと思っている。恐らく少なくないアメリカ市民はまだその慢心から抜け出せていない。日本の民は経済力に酔った。追われる側になった時に平等と公平の増大の追求が鈍ったのだと思う。どちらも、すでに失われている力の幻想から覚醒する必要がある。本当は大した力はなく、協力によって平等と公平を拡大する道を進むしか無い。それが、新約の福音が指し示すところだろう。アメリカは民主主義時代を牽引した素晴らしい国だが、どんなに素晴らしくてもだめなことはだめと(イエスのように)言わなければいけない。アメリカはやってはいけないことをやったときちんと告白した上で前を向くべきだと思う。アメリカのだめなところを指摘する中国の声にも耳を傾けるべきだ。誰でもだめなことをしてしまう。(戦後の日本やドイツのように)その罪は認めた上で、善いことを重ねていくしか無い。小さくは、牧師や役員が過去にどれだけ善いことをしていたとしても、ダメなことはダメだと言わなければいけないし、だめなことをだめだと認められなくなったら、その状態の人間に権限を与え続けてはいけない。大惨事を招く前にその座から外すのが良い。