プリゴジン反乱に関する事実報道がちょっと落ち着いてきて、評価や予想に関わる記事が増えてきている。
ERRはエストニアの放送局で、私はERR Newsを毎日読んでいるが、プリゴジン反乱に関する報道は記事量が少なくかなり抑制的な印象があった。ウクライナ侵攻はエストニアの人々にとっては他人事ではない。ある日、ロシアが牙を剥くという可能性が相当意識されている。ロシア語を母語にする人も大勢住んでいて、民主制を支持していても不遇を感じている人もいる。エストニアとの接点があると、国の独立とは何かを考えさせられる。
もちろん、ナショナリズムとは無縁ではいられないが、専制と隷従への忌避感は大きい。情報管理への意識は高く、eIDは義務となっているが、情報管理の責任は分散されていて、政府が勝手に手を出すことができないようにできている。情報は個人のもので行政は必要な範囲で預かっているという建付けになっているところには好感が持てる。一方で、もし悪意を持った人がいたら、プライバシーが守られていることで追跡するのは難しそうに感じることもある。権利には責任が伴うのだ。少しバランスが狂えば疑心暗鬼に支配される可能性がある。
では、政府があらゆる情報への無制限のアクセスが可能となれば安全性が高まるかと言えば、今後は政府・行政が脅威となる。どちらのモデルにも長短はある。私は、リスクがあっても個人が尊重されるモデルを好む。もちろん、安全性を高める慎重で継続的な制度改定は不可欠だ。技術進化でできる力も守る力も刻々と変化する。
ワグネルにせよ、国軍にせよ、内部に組織意志と異なる考え方をする人は必ずいる。上手に隠せる人もいるし、心の中は外からは判読に限界がある。その人が、組織意志と異なる行動を取るかどうかは状況によるだろう。今回のプリゴジン反乱でプリゴジンの意思と異なる考えを持つ人もいるだろうし、もともとワグネルが打ち出している意志に強制的に従わされている人も少なくないだろう。ほぼ無理やり徴用された人もいるだろうし、自由が失われている中で、どう生きていくかを考えながら身の振り方を考えている人は今も少なくないだろう。沖縄戦の伝承も思い起こされる。日本軍の少なくない権限者は民衆を守らなかったし、置かれている環境の中でどう生き残るかに必死だった人も多かっただろうが、無力でも反旗を翻した人はいる。今回のプリゴジン反乱は、ワグネルの構成員にとってどんな意味を持っていたのだろうか。
ワグネルの非人道的な戦闘は冷静に考えればあってはならないことだが、ウクライナ侵攻で一定の勝ちに繋がっている点は、内外の誰も否定できないだろう。モスクワでもワグネルグッズが売られていて、強いワグネルには称賛の声もあるだろうし、グッズを身に着けて愛国心を証明し、自分も強くなったような気持ちになる人もいるに違いない。その流血の悲惨には思いが至らないが、プリゴジンの反乱を見ると考え直さざるをえない。ショイグにつくか、プリゴジンにつくかを迫られることになる。仮にプリゴジンにつけば、プーチンからどんな仕打ちを受けるかわからないというか、ほとんど確信的に恐怖を覚えるだろう。プリゴジンに反抗すれば、強いワグネルから制圧される側に立つことになる。もし、プリゴジンがモスクワに来て、こそこそと逃げ隠れができなければ態度を決めなければいけない。そういう事態となった時に、どう判断するだろうか。冷静になれるかどうかはわからないが、プーチンをプリゴジンと比べてどちらがマシかを考えざるを得ないだろう。敗戦時に、米軍捕虜になる方がマシだと考えた人がいたように、どういう選択が自分にとって合理的かを考えさせられた人はいるはずだ。
ワグネルの中の人も様々な葛藤がある。兵士として徴用されているから自由はない。一人になれば、大した力もないただの人間だ。ワグネルから給料が出なければ明日はどうなるかわからない不安もあるだろう。プリゴジンの権力が失われれば、極めて苦しい未来が待っているのは明らかだ。もう、運命共同体と考えるか、それでもリスクを恐れて逃走するかを判断するしか無い。プーチンから国軍編入と言われても、バラ色の未来など望めないことも明らかだ。悲惨だ。自分の意思でワグネルに参加した人もいるだろう。常識的に考えて、ワグネルは国軍より高待遇だろうから、収入の維持も難しそうだ。だからといって退役して同水準の給与を得ることも難しいだろう。国軍の中の人から見ると、ワグネルが成果を出すのを見るのは複雑な思いだろう。金がなければ戦争が継続できないことにも気がつく人は多いだろうし、敗戦前の日本軍のように勝てない戦であることを気づいている人も少なくないはずだ。しかし、自らは一人で事態を変えられる力などない。濁流の中を泳ぐようなものだろう。
民衆は、自分は安全なところにいると高をくくっているかもしれないが、プリゴジンの反乱でもう安全は失われていることに気がついたはずだ。もちろん、目を瞑る人も少なくないだろうが、現実がなくなりはしない。
改めて、ERR Newsのウクライナ(ロシア)記事を読むと、その抑制的な記述に好感が持てる。この事態にナショナリズムを煽るのは容易なことだと思うし、いくら読者が賢明でも必ず煽り記事には煽られてしまうのは世の東西に関係ない。ただ、煽りは内部の分断を産み、判断の硬直化を招く。慎重にリスクを評価するためには、スピードを犠牲にする必要もあるだろう。
お前は、プリゴジンを支持するか否かといった二元論は無益である。なるべく冷静にリスクを評価すると共に、武力に頼ることなく平和を拡大する方策を考えるのが理にかなうといえよう。
日本は、物理的に遠いところにあって他人事になってしまうのはしょうがないが、冷静にリスクを評価し、平和の拡大に資する方策を考えるべきだと思う。心情的には弾薬の供給などもってのほかと考えるが、一人日本のために何が有利かという観点ではなく、誰もが、どこにいても生きていけるような社会の実現に向けて何をなすべきかという観点をもたなければいけないと思う。民が事実を把握できるようにし、自分で考えられるようになるのが望ましい。声の大きい人に依存しないで考えを述べられるような社会の構築が望ましい方向だと思う。
国が独立しているというのは、民の人権が守られるための必要条件だが、十分条件ではない。強い国を目指すのは適切ではない。それは今の覇権国であっても同じことだ。