FBの記事に加筆して掲載
Twitterで流れてきて読んだ。トイレに応用するという節の頭に「トランスジェンダーの人たちの困りごとは何ですかと聞かれて、わたしはいつも『貧困です』と答えています。」という言葉に感動した。
「社会全体がシスジェンダー向けにできている以上、程度の差こそあれ、トランスの人たちは生きていくうえで不断に「コスト」を払い続けています」はトランスの人たちだけの問題ではなく何らかの形で差別され、排除されている人には同じ問題がある。まさに「問われているのは、排除」というキーワードは本質をついていると思う。
入れるトイレがないのは、その地域に行けない、長く滞在できないことと同じで、自分がそういった状況に置かれていることを想像すればそれがひどいことに気がつけない人はいないだろう。気がつけても、自分が強者側にいると弱者などいなくても良いという考えが勝ってしまうことはあるだろう。安全なトイレへのアクセスが無いということは相当恐ろしいことだ。
特に女性にとって安全なトイレ、トイレという場所のリスクが気になるのは理解できるから、全部ジェンダーレスにしてしまえというのは受け入れがたいというのは分かる。偽トランスの人が女性トイレに来るリスクはあるし、極めて厳格に女性性を問いたい気持ちが生まれてもしょうがないと思う。しかし、社会的にはトランスの人も排除されない状況を作っていかないわけにはいかない。
視点を変えると、どう安全な社会を構築していくかが問題になる。マイノリティを排除して安全な社会を作ろうとしても明るい未来は来ないということを理解しなければいけないということだ。単純化すると、マジョリティはマジョリティであるが故に享受している特権に対する対価を払って、マイノリティを含めて社会全体が安全な社会を築き上げていくしかないという現実と向かい合わなければいけないということなのだろう。
私は少子化問題は類似問題だと思う。
以下、加筆部分。
できないことがあるのを劣っていると考えたり、他の人にはできないことができる人を優れていると考えたりするのは悪魔のささやきであり、無意識にその罠に落ちることは誰にでもある。障碍者を見て可愛そうだと思ったり、トランスジェンダーの人を病人のように見たりするのは本質的に不遜なことなのだが、なかなか差別や排除の感情から自由になることはできない。他人より上手にできることがあれば嬉しく思うのは自然だけど、それは数ある視点や評価軸の一つでの評価に過ぎない。どの軸で測っても良い評価が得られない人もいるかも知れないが、その人に何か眠っている力があったり、その人が世界を救うような仕事をするかも知れない。誰にも人の価値を測ることはできない。いずれにしても、人はやがて死ぬのだ。
報道を含め情報の怖さは、序列化や分断が人間の劣情を引き出す効果があるところにある。
強いものに価値があるという錯覚を生み出し、弱いものを排除していってしまう。既得権益を守るためには新規参入を潰さなければいけない。女性を排除し、トランスジェンダーの人を貧困に追い込んでいく。ひとり親の親子を貧困に落とせば、発揮可能な力も発揮できなくなる。まさに「問われているのは、排除」、排除、排斥こそ問われなければいけない。強いものに予算をつけるだけでは明るい未来を迎えることはできない。過去の栄光に慢心して、自分には特別な価値があると思ってしまうと社会を劣化させる存在に堕ちてしまう。
私は、残念ながら、昔から自分の不遜さに気がつくことができない。そのために周囲を不快にさせたことは数限りなくある。注意はしてきたから、多少は毒が減っていると思いたいが、現実は厳しい。それでも、事実に向き合うのは唯一の良い出口に至る道だと思っている。トランスの人が直面する困難を知ることで、自分の行動は(十分でないとしても)変わる。
強い国を目指すのは誤りだ。生きている人が直面しているあらゆる困難を取り除いていくことに価値を置くほうが結局は幸せへの近道になるだろう。