ある盲目の方の講演を見て、指摘されてみれば当たり前のことに気が付かされた。
障碍はパーソナリティの一つに過ぎない。そして、外見からはわからない障碍もたくさんあり、それが様々な問題を生んでいるということだ。例えば盲目であることでできないことはあるが、その前にその人が誰とも同じ一人の人間であることを前提にして接することがDiversity and Inclusionの基本だと言われて、それはそうだと気がついた。例としては、LGBTQの話もあって、LGBTQという属性があっても一人の人間であることは変わらない。肌の色や人種、使う原語、アレルギー体質やメンタルに関わる特性もそれぞれ一つの属性であって、別の軸で見ればすごい能力を持っていることもあるし、能力の有無に関わらず一人の人間であることは変わらない。
何はともかく、まず一人の人間であるということを大前提に考えようというメッセージは力強い。
考えるまでもなく、もし何がゴールがあってチームを組むことになれば、信頼関係を築くことができるならチームメイトの性別も国籍も性自認も障碍も本質的には意味を持たない。ゴールに向けて貢献でき、力を出し合えるなら、それを最大化できるようにうまくやればよいだけだ。その協力できるためのインフラのアクセシビリティが高ければより成功のチャンスは増える。つまり、アクセシビリティは可愛そうな人、不利な人を助けるためにやらなきゃいけないことではなく、アクセシビリティを高めればより多くの才能を活かせ、より遠くまでいけるということだ。
ただ、現実には意識の転換も容易ではないし、初期コストがかかる割には成果はすぐには出ないことが多い。
道徳教育で「弱いものにはやさしくしなさい」と刷り込まれてしまうのが大きな問題なのだろう。
弱点は誰にでもある。軸を変えれば強弱は変わる。そして強弱と優劣が連動して、強者は優れていて劣後する弱者を助けなければいけないと考えてしまうが、それは実は合理的ではなかったということなのだと思う。しばしば優秀な人という言葉が使われてしまうが、それは何かの軸で測った時の強弱であって一つの属性に過ぎない。実際講演者はNPOで要職についているし、性自認が物理性と一致しない優秀な経営者は多く知られている。
Diversity and Inclusion、アクセシビリティの本質は弱者救済ではなく差別の解消によって福祉・実業両面での品質向上を目指すものだということを多くの人が理解する必要があるだろう。