『モスクワに留学していたら戦争が始まった話』を読んで

モスクワに留学していたら戦争が始まった話-2を引用してFacebookに投稿した記事の転載。

私は、ロシアにもウクライナにも行ったことはない。フィンランドのロシア国境とエストニアのロシア国境には行ったことがあるのと、短期ならVISAなし渡航でウラジオストクに一度行ってみたいと思っていた。緊張関係があってもまさか戦争が起きるとは思っていなかった。クリミアのことは知っていたが、どこか遠くのことと感じていた。EUの外側に出たのは、2019年11月のベラルーシ・ミンスクで、町並みは紛れもなくヨーロッパ、EUと地続きを感じさせるものだった。ワルシャワで感じたように異様に広い道に違和感を感じる以外には多くのEUの街と変わらない。恐らく、モスクワもサンクトペテルブルグも美しい街なのだろう。私には「愛するモスクワ」という感覚はないが、ロシアの人で危ない感じがする人に会う確率は、日本人で同様の感想を感じる割合と変わらない。ところが、ロシア政府は「まさか、本当にやるなんて」ということをやってしまった。

昨年も11月をタリンで過ごした。まさかロシアが攻めてくることはないだろうと考えてのことだ。しかし、懸念がないわけではなくタリンの街なかでも空爆シェルターの表示がつけられ、油断できない状況であることは報道されていた。

この「モスクワに留学していたら戦争が始まった話」の第一話は有料記事だが、その中で筆者は『「政治的に大人しくしていれば」平穏であるという日常』と振り返っている。示唆に富む。

私は、今の日本政府に強い危機感を持っている。アメリカに対しても中国に対しても同じような危機感を持っている。政府が排他的で強権的な発言を強めているからだ。強い国を主張する人が現れると、その人、あるいは政治的集団に依存してしまう人々が増えてしまうが、権力の集中は多くのケースで破綻してしまう。「まさか」を防ぐためには権力者を牽制するしか無いのが現実。国際的な平民の連携で専制と隷従のない社会を作り上げていくのが望ましい。ルール作りを安易に政治家に任せすぎてはいけないのだと思う。

民主主義社会でも分断が進むと独裁を指向する人に権力が集中して、いつのまにか、個人の権利が狭められてしまう。特定の国の人、あるいは仲間だけに権益が集中するような社会には持続性はない。終戦後、ロシアが世界一平和を望む国になったら良いと願っている。日本も敗戦後長らく平和を望む国として活動してきたのに、右派によって力に頼る国に変えられてしまいつつある。防衛力がいらないとは思わないが、政治リーダーに権力を集中させすぎてはいけないと思う。

政治的におとなしくしていれば平穏という状態は危険の兆候なのだ。日本では強い国を指向するアベノミクス的なものを終わらせなければいけないと思う。票の獲得のために未来から借金してばらまくような政策から脱却しなければ専制と隷従が待っている。まだ大丈夫と考えちゃダメだ。

一個人が見たロシアとウクライナの戦争の感想は、まだ大丈夫という日々の油断の集積の恐ろしさを教えてくれる。一読をお奨めしたい。他国のことはともかく自国のありようについては油断なく関わらなければいけないと思わされたのであった。

※冒頭の画像は、2019年にミンスクを訪問したときに乗った地下鉄。青い色の電車(帯は黄色)が引用記事に出てきたので、思い出して掲載。

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