安倍晋三氏のこと

不謹慎であることは十分承知しているが、私は安倍晋三氏が今後自ら影響を与えられなくなったことにホッとしている。奪われて良い生命など無いし、ご家族や関係者、喪失感を感じている人の心が癒やされることを望む。自分の言動が人の心を傷つけていることも承知している。しかし、私は彼が残した負の遺産から目をそらしてはいけないと思っている。同時に、良かった点についても誠意をもって探したいと思う。

まずはグローバル視点

2つの日経/FTの記事を引用したい。

[FT]安倍政権の遺産は貿易協定と強力な官邸』Robin Harding
(2020年8月28日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

[FT]安倍晋三氏、日本政治家で比類なき影響力(評伝)』Leo Lewis and Kana Inagaki
(2022年7月8日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

上の記事は、首相退任時の振り返りだ。読み返すと結構辛辣で、結局言ったことを実現できなかった政権だったと書かれている。一方で、最後の部分で「2013年には国家安全保障会議が創設され、翌年には内閣人事局が設置された」を2つの重要改革と位置づけている。評価は別にして、権力の集中を謀った部分では日本を大きく変えたと言えるだろう。

下の記事は、亡くなった日の記事だ。こちらでは、「環太平洋パートナーシップ」(TPP)協定と「自由で開かれたインド太平洋」という概念の推進を実績としてあげている。FTはイギリスの新聞だから、外国から見た目ではこれらが光るということだろう。オリンピックについては彼の業績と言えるが結果的に異例の影の薄いものだったとしている。よく読むと結果として何も実績は残していないと書いてあるように読むことができる。TPPやQuadそのものに対する評価には触れられていない。実質的な成果が出るとしても時間が経過しないとわからないことだ。

2つの記事に共通しているのは、日本で「安倍政権の存在は比類なく大きく、並外れた政治家だった」という評価であり、「国民は、歴代在任期間最長の安倍首相の辞任を惜しむ」というコメントだ。もちろん、国民の支持を得た長期政権だから国際舞台でも敬意をもって扱われていたと思う。しかし、安倍が国際的に何をやったかを見直すと具体的な記事にできる成果は上がらない。トランプの暴走を止めたのは実績だが、自らが何かを進めた実績、何か問題を解決した実績は見当たらない。ただ、実力が示せたわけではないが、日本はまだ国際社会で重要な位置にいることを忘れるなというメッセージは送れただろう。

この2つの記事は私の安倍氏に対する評価と概ね一致する。日本の外から見れば、安倍の評価は国民の高い支持を集めたリーダーであるという一点に尽きる。だから、日本の一部で言われているような安倍氏が未達だった目標を何とか進めようというような論調はない。安倍の穴を埋めるために何をしなければいけないかという議論もない。安倍氏は人間的な魅力が高いこともあって、心からの弔意は本物だろうが、今後なにか良いことが起きることは期待できない。

次は内政

実績として上げるべきなのは雇用状況の改善だろう。統計数字で見ると、完全失業率を減少させたのは実績と言える(鉱工業生産指数、完全失業率)。民主党時代にも失業率は減少傾向だったが、失業率削減が実績として出ているということは、経済の安定に貢献していると言えると思う。統計上は非正規雇用が大きく増えたとは言えない。女性の非正規雇用が削減できなかったのは残念だが大きく悪化したという事実はない(雇用形態別雇用者数)。また、出産年齢の女性の労働力率は目に見えて上がっているのも事実だろう。ただ、国際競争力を見る限り上昇は見られない。労働力は引き出されているが、労働力が国際競争力の向上に資する形で投入されているとはいえない。

安倍氏の防衛分野への注力は、実績があったかどうかは評価のしようがない。戦争が起きて、守れたといった事象は起きていないから、驚異に対して備えが進んだという意見もあれば、いらないことに無駄遣いしているという意見もある。尖閣列島の問題に限らず、安心できないような事件は多くあるから無視して良いことではないが、安倍政権の施策が適切かどうかについてはもう少し冷静に再評価したほうが良いのではないだろうか。

安倍氏の支持者には申し訳ないのだが、結構一生懸命良い点を探ろうとしたのだが、民が豊かにした実績を見つけることはできなかった。安倍氏が担当していなかったらもっと悲惨になっただろうという論調は内外にある。本当にそうなのかも知れないが、客観的に達成できた実績を見出すことはできないのである。

しかし、支持の声は間違いなく大きい。何かがおかしい。今は借金漬けだが、日本には高度成長期の実績と蓄えがあった。長らく、近隣の韓国、中国から負われる立場にあったが、2011年には日中のGDPは逆転しているし、欧米で街を歩いていると、明らかに中韓の存在感は日本を凌駕している。既に敗色は濃厚だったのだ。1990年前後に欧米を訪問すると日本の存在感は大きく、日本のせいで割りをくっていると怒っている人はたくさんいた。しかし、2000年頃になると、日本の勢いが落ちたこともあるかも知れないが、原因転嫁より自分たちで何とかしなければ出口はないという感じに変わっていた。誰かのせいにしたって問題が解決できないのは当たり前のことなので、他国の動きに学びながら施策を変えていくのも当然のことなのだが、美しい日本を取り戻すというメッセージは今も支持されている。事実に基づいた判断はできているのだろうか。

客観的に見れば、彼は国を豊かにするようなことでは何ら実績を出していない。たくさんのやったふりはあるが、実績はない。所得は上がらず、国際競争力も高まらなかった。ただ、TPPなど彼が撒いた種が育って世界の将来を明るくする可能性は残っている。そして彼が残したものは、ナショナリズムを煽ることに成功したという状況だろう。私にとっては、それは戦争への道だが、見る人にとっては戦争を避ける道なのかも知れない。評価は分かれるだろう。人数が多いほうが正しいとは限らない。

負の遺産について

彼が残した負の遺産はいくつもあるが、まずは国の借金を見ないわけにはいかないだろう。アベノミクスが良いインフレを起こすことができていれば、財政健全化も目標にあげられる時期を迎えていたはずだが、残念ながら現時点では博打に勝てているとは言えない。緊縮方向に舵を切るのも困難な状況にあるので、掛け金の引き上げは避けられないだろう。投資をしなければ新しものは生まれない。新しいものが生まれなければ成長は期待できない。安倍氏が努力しなかったとは思わないが、実績は出ていないのである。常識的に考えれば、経営者は総取り替えのレベルの失策と言えよう。

必ずしも安倍氏の責任とは言えないが、今回の事件の背景には政教分離の破綻がある。日本に限らず、宿痾のようなものだが、積み残した課題と言えるだろう。警察の強化で安全を確保するというよりも、構造的に社会不安をもたらす点ではある意味で暴力団よりたちが悪い。これを機に、問題に立ち向かうべきだろう。政治と金の問題もしばしば問題になるが、政治と金より、政治活動の透明性をどう引き上げていくかが本質だと考える。

特定秘密保護法や安保法制などは、憲法違反と言ってよいだろう。内閣法制局の機能も破壊し、人事局で独裁体制を近づけた。新エネルギーの推進はやったふりだけで、原発の温存は安保上の弱点でもあるし、エネルギー危機を深刻にしたと考えている。もちろん異論はあるだろうが、国を正常化するまでには相当長い期間が必要だろう。

終わりに

彼が内政でスローガンとしていた「日本は女性に、輝く機会を与える場でなくてはならない」に私は共感するが、彼が実際にやったのは家による女性の支配の維持だ。女性の自由が拡大すれば、男性は与えられていた下駄を失うからその痛みを乗り越えなければいけない。権力者は家による支配を諦めなければいけない。極論すれば天皇を頂点とする大家族制を放棄して、フラット化し、政治リーダーは天皇の権限を代行する神官ではなく、主権者の権利を守る誠実な召使いに変わらなければいけない。

欧米で女性政治家が増えていて、個人差はあるが多くからは支配者視点があまり感じられない。政権維持優先よりは多くの人が幸せに、特に弱い立場にある人達が見捨てられない社会をどう作るかという観点を強く感じて好ましく思う。戦争を含め犯罪行為を止めるために力が必要なことを無視したりはしないが、力では根本的に問題を解決できないことを前提に考えているのだと思う。もちろん、女性にも男性にも例外はあるしLGBTも現実だ。

個人的には、国葬儀などありえないと思っている。衰退期は、英雄待望の動きが起きる。日本に限らない。英雄がやがて国を滅ぼすことになるのは世の理である。英雄の亡霊を祀ってはいけない。