2022年7月8日に軍国主義化を推進した安倍氏が世を去った。しかし彼が日本で撒いたナショナリズム=選民意識の種は彼が去っても消えるわけではない。危機は去ってはいないのである。
ロシアのウクライナ侵攻に関しては、猛烈な市民の反抗を受け、当初開放のための特別作戦として派兵された兵士は大きく戸惑ったことが記録されている。後に戦争で地位を高めてきた人達によって開放ではなく侵攻にモードが変わり、救うことが目的ではなくなったので市民生活の破壊を躊躇しなくなった。もはや、市民のための戦争ではなくなったのである。時間が経過すれば、より住みやすい社会が待っていると市民が思えば、やがて前を向く日もあったかも知れないが、今となっては絶望的だろう。より深刻なのは、ウクライナのナショナリズムがロシアに対して排他的になってしまっている点だ。終戦後短くても10年は不幸な時期が続くだろう。
日本は先の戦争で、侵略行為を行ったのは歴史の事実である。母語の教育を許さず日本化を強制し現人神として天皇を拝ませた。決して、その罪は消えることはない。どれだけ罰を受けたとしても罪が無くなることはない。一度罰を受けて償いを済ませたら、再び同じ罪で罰せられることはないと主張するのは国際ルールに準拠しているが、だからといって罪が消えることはない。事実が変わるわけではないのだ。世代を超えて謝る必要はないなどと国のリーダーが言うのは、罪がないと主張しているのと変わらない。罰を受けて償ったのだから、もう罪を訴求するのはやめて前を向こうと思っていた人が反抗心をもつのは自然なことだ。反抗心が高まれば緊張感も高まり、ナショナリズムを煽る勢力はそれをエネルギーにして軍備を進めることもできるようになるし、汚職を含む国内の問題から目をそらさせる効果も期待できる。民がその罠にはまってしまえば、独裁者の誕生は秒読みだ。
表題で、バリアフリーとナショナリズムと書いたが、バリアフリーはナショナリズムのような強さの主張とは対極に位置するものだ。その推進には金がかかる。欲しがりません勝つまではと真っ向から対立するものだ。
昨日2022年7月8日に私はよく行くインド料理の店に持ち帰りのビリヤニを求めに行った。だいぶん前に店主に聞いたところでは、中国人が経営する店で自分はインドから良い暮らしを求めて来たと言う。しばらく前に女性と子供がいて店主のいないタイミングがあったので家族かと聞いたらそうだという答えが帰ってきた。日本語は通じなかったがお互いのたどたどしい英語でコミュニケーションは通じた。そして昨日、彼女らがいなかったので店主に帰国したのかと聞いたら、子供は日本の学校に行けることになり一緒に住むことになったのだと嬉しそうに話してくれた。私は、正直に嬉しかった。言葉にも文化にも母国とは大きな差があって困難が多々あるのは明らかなのに、日本で暮らすほうが幸せだと思ってもらえたのだ。習慣の異なる人を街として迎え入れれば、受け入れ側にも苦労もある。不愉快に思う人もいるだろう。でもおいしいビリヤニを食べられるのはありがたいことだ。中国料理人もトルコ料理人も身近にいる。ネパールの人も韓国の人もいる。彼らの多くは母国があるが、自分の意思でこの街に住むことを選んでいる人だ。彼らにとって、日本は住みたい国なのだ。なんとありがたいことだろう。
老人や障碍を持った人でも暮らしやすい環境を整えるのがバリアフリーだ。バリアフリーは所謂健常者には必要なものではなく、不経済と感じさせる面もある。しかし、年老いた親の姿を見ると、バリアフリーの恩恵を実感できる。そして、街全体がバリアフリー化していくことで、ギスギスしたナショナリズムではなく優しさと強要されない助け合いが生まれるのだ。
外国の方々に対するバリアフリーも一見不経済、不公平に見える時期もあるかも知れないが、誰にとっても住みやすい社会を作り上げていくことが実は安全保障でもあるのだ。どれだけ頑張ってもテロはなくならないだろうが、誰にとっても住みやすい社会に近づけば、それを破壊するような動きはしにくくなるだろう。それは愛の世界で人権がより尊重される方向に向かう社会だ。
選民意識は、愛を破壊する。イエスは「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言ったと言う。愛の世界にはナショナリズムは必要ない。