もう「性同一性障害」、障害という言葉を使うのはやめよう

FacebookでNYタイムズの「He Spurred a Revolution in Psychiatry. Then He ‘Disappeared.’」を引用して書いた記事の再掲

私は子供の頃は同性愛は異常で恐ろしいことだと考えていた。この記事で、かつてアメリカでは精神疾患として分類されていて、42州では犯罪とされていたとある。日本では性同一性障害という言葉が用いられているが、障害と名付けることは普通でないとすることであり、疾患で治療できるなら治療するのが正しいこととなってしまう。
たった50年前にゲイは精神疾患ではないと学会で身分を隠して主張した人がいた。そのかいもあってか、性別違和(Gender dysphoria)という用語が当てられるようになっている。障害(disorder)という言葉は使わない。性別違和を感じる人は2%以上いるという調査もある。7%程度ではないかと言う人もいる。障害と見るか、個性と見るかで全く見え方が変わる。
私は今は、子供の時とは違い同性を恋愛対象と感じる人を異常だとは考えていない。言い換えれば矯正すべき障害とは考えていない。静かに見つめれば、自らの性指向を告白している人がそれ以外のことで異常だと感じることはない。もちろん、一人ひとり人は違うから、評価軸を定めれば優れたところも劣っているものもあるが、自分と同じ一人の人間で自分と同じ性指向を有している人との間に優位な差は認められない。知識を得ることがなく、聖書にもあるような同性愛者は絶たれなければならないといった価値観が揺さぶられなければ、性別違和のある人を異常者として避け続けていると思う。
自分が持つ価値観にはバイアスがかかっているのだ。歴史観や宗教に基づく規範は特にバイアスがかかりやすく専制に用いられる。そして、その影響下にある人はどれだけ高い知性を有していても外からの視点、鳥瞰する視点を持つことは困難なのだ。科学は思想より事実と説明性、再現性に重きを置くから時に思考バイアスを越えられることがある。地動説もそうだった。
もう「性同一性障害」、障害という言葉を使うのはやめよう。法務省のページにも「性的指向及び性自認(性同一性)を理由とする偏見や差別をなくしましょう」という記事がある。しかし、その記事の中にさえ10回も性同一性障害という言葉が出てきている。今は「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」という法律があるからその言葉を使わなければいけない面もあるが、性別違和を感じる人は障害者でかわいそうな人たちだから特例を設けて救済してあげましょうという考え方は上から目線の差別が根底に流れている。
もう「性同一性障害」、障害という言葉を使うのはやめよう。性別違和を感じることは決して障害ではない。バイアスから目覚めると見直さなければいけないことが山程でてきて面倒だが、取り組むことで少しずつ安心が高まっていく。恐ろしいことに50年前は障害者どころか犯罪者だったのだ。50年でやっと制度的には社会から排除されなくなった。時間がかかってもより良く生きることができる人は増えたと思う。