日経新聞2022年2月8日に『ライフファースト族 こう働く』という記事が出ていた。ただ、Googleで検索してもこの記事しか見つからないので、まだ広く認知された言葉ではないだろう。
2013年に創業した時、ユビキタスライフスタイル研究所という社名をつけた。その時実際に意識していたのは、コワーキングスペースを中心にシェアハウス、グループホームを少し念頭において「誰もが場所にしばられずに協働できる社会の実現」をスローガンとした。背景には、2009年から10年のニューヨーク赴任時に、なぜ就業が居所に束縛されてしまうのだろうか、少なくともIT職では、そんな制約は取り除くことができるに違いないと思ったところにある。米国で暮らすことで学んだことは多く、それまで常識だと思っていたことが、米国では全く通用しないこともあったし、どちらの常識にも利点、欠点があり、どちらが優れているとかいう考えだけでなく、唯一の正解、価値観の頂点など存在しないということを感じるようになった。高齢になれば活動は制約されるし、事故や疾病もいつ起きるかは分からない。私は自分の手を動かして障害者を助けるようなことを自然にはできないが、形は違っても公共の福祉の増進に貢献したいと思っている。単純にはITでできることはないかと当時も今も考えている。
村山氏は「出発点に実現したい生き方がある。それを優先して生活を組み立てる「ライフファースト」な人たちだ」と書いている。そういう捉え方もあるだろう。ただ、記事に出てきたおかえりの人が「ライフファースト」と自分で思っているかはわからない。「“還す”を未来のあたりまえに。」から始まるメッセージを読んでいると「ライフファースト」という言葉から想定されるMy life firstといった自己中心なイメージは感じられない。むしろ、持続性のある形で良いことをしたいという思いが伝わってくる感じがする。その事業を推進する人がどこにいるかなんか関係ないだろうというだけのことだと感じる。同時に、現時点で長野県で働いている人がいることの重要性を否定する人はいないだろう。何かを実現するために必要であれば、それはクリアしていくし、満たさなければいけない要件以外は、要求する必要など無いという考え方に見える。自分が望む暮らし方を目指すのは当たり前のことで、珍しいことではない。自分たちが実現したい未来に向けて引っ越しが必要になれば、それを優先する。育児のために移動するタイミングもあれば、自分が接したことのない人たちとコワークすることに魅力を感じて移動するタイミングもあるだろう。アメリカで思いっきり挑戦したが、老後は日本に住みたいという人もいれば、自分の親の街、自分の思い出の街の持続性に注力する人もいる。
私は、アメリカ・ファーストとか都民ファーストとか~ファーストが大嫌いだ。アメリカを優先すれば、アメリカ以外を劣後させることになるし、都民を優先すれば都民以外を劣後させることになる。外国人の入国をむやみに制限したり、移動の自由を妨げるような考え方は嫌いである。もちろん、いろいろな人がいるし、いろいろなリスクがある。だから、どうしてもルールが必要となるのはしょうがない。それでも壁は低くできる方向に進むほうが将来が明るくなると思っている。エストニアのe-residentになり起業したのも壁の低さに魅力を感じてのことだ。
記事の中盤に米エアビーアンドビーのブライアン・チェスキー最高経営責任者の「エアビーで生活する」発言に触れている。居所を持たない生活を住民税を払わない生活と見れば、社会福祉の破壊者になる。まともな税金の使い方ができないような政府に税金を払う気にならないと思う人は少なくないだろうし、意識的な脱税犯罪も消えない。私自身一時は、パーペチュアル・トラベラーに憧れを感じたこともあったが、今は魅力を感じない。いつかは社会保障に深く依存する日が来る。持続的な社会保障制度を保てるかどうかは極めて重要だ。やがて年金制度も健康保険制度も国の壁を超えられるものにならなければいけない日が来るだろうが、私が生きている間にそういう時期が来そうな気はしない。
一方で、若い人たちには土地や家への呪縛を解けるようであって欲しいと願っている。守られているが自由な社会が挑戦を促しより良い社会を形作るだろう。
世界中の誰ものQOLが持続的に向上するような社会の実現に向けて自分ができることを進めていきたい。それは望めばユビキタスライフスタイルが現実に手の届く生き方になっている社会だと考えている。「ライフファースト」な考え方と言われるかも知れないが、そういう言葉で捨象されたいとは思わない。